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「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

堂山

2007-03-13 00:00:54 | 城郭・城下町
(豊橋市石巻中山町)
 八名郡橋尾(橋尻)で豊川を越えた古東海道は、賀茂、西川を通り、この地で峠を越え遠江へ達したといわれる中山の地。
その隠れ里のような村の北斜面の山は、堂山と呼ばれ、天台宗の白星山太陽寺械明院があったという。故に太陽寺郷と呼ばれていた。
「太陽寺縁起」によると、平安末期の長承三年(1134)右大臣徳大寺成忠(公能のことか)が創建し、十六の伽藍を建立、その子清蓮が入山したという。
南北朝時代の延元三年(1338)に大火で焼失。再建するも大永二年(1522)に再び火災(兵火か)に遭い、廃寺となった。
往時の面影は全くないが、岩盤が少なく斜面の比較的緩やかなところを段状に削平し、出土が少ないことから一部の建物に布目瓦を用い建立されたとみられる。瓦片の他、12世紀頃とみられる壺や皿等の中世陶器片、礎石の一部を見出すことがある。また、南西側下方にある医(くすし)神社の建つ場所も、伽藍のあったところといわれている。
地名に堂山、太陽寺、大門(祇園杉(二枚目の写真)付近に仁王門があったという)等が今に伝えられている。
 永禄四年(1561)に(またはそれ以前)西郷正勝が太陽寺跡地を利用し「堂山砦」は築かれた。
寺の地形を利用した簡易応急的な砦であったと思われる。間もなくして牧野成勝、成定らがこの地を攻め、“堂山の戦い”が行われた。
この戦いによって辛うじて勝利するも、翌年、今川氏臣朝比奈泰長に攻められ落城した。
この堂山砦跡を、北東側の採石場及び採石場南東側にあったとされる「弾正砦」と同一とみる説。採石場上方、五葉城との間にあった「高城砦」と同一とみる説がある。
平成2年に愛知県遺跡分布地図を作成するにあたり、県教育委員会は採石場南東側、字弾正城跡の山を「弾正(高城)砦、別称堂山砦」として定義づけている。
 前回(平成3年3月2日)訪れたときと寺跡、砦跡の変化はみられないが、途中の斜面に砂防施設が設けられ、医神社の屋根葺き替え、石鳥居建立等の違いがみられた。
      
(関連記事:萩平山城 西川城

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