flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

五葉城

2007-05-27 00:00:55 | 城郭・城下町

(新城市富岡・豊橋市石巻中山町)
 今から30年程前の私が子どもだった頃、新城八名地区で最初に訪れた城跡である。
地元大原地区の方々に登山口を尋ねたところ、宇利川に注ぐ坂佐川の谷を登るのが一番近いと教えられ、当時まだ大原調整池(五葉湖)の築造前、恵廼池と川谷池という小さな池の間にある橋を渡り、坂佐川の谷を遡った。
やがて砂防ダム工事現場に到着し、工事関係者に尋ねると、「ここより上はまだ道が無い、砂防工事用の道は、宇利峠近くからの林道から引いたもの」と教わった。そこで、右手に見える五葉城の尾根側に向かって道無き道を真っ直ぐ登ることとした。
開けた急傾斜に大きな石が露出し、足をかけると崩れる、そこで私は足を負傷してしまったのである。幸い軽傷だったため、そのまま続行した。
頂きに到着。辺りは鬱蒼とした樹木で薄暗かったが、削平された地形は確認できた。
帰路、南東方向に下る真っ直ぐで急な溝を見つけた。そこを下ると先程の砂防工事現場の近くに辿り付いた。今考えると、竪堀を下ったのではないかと感じている。
 五葉城へは、それ以来訪れていなかった。五葉湖ができてからの道筋は、林道が整備され、当然の如く先回の道は湖底に沈んでいた。砂防工事現場跡地を過ぎ、やがて五葉城跡に差し掛かる。以前とは全く違う光景。開けた標高約330mの頂きは、本宮山を望むことができる。
主郭部には昭和54年に建てられた説明板。樹木も疎らとなり、堀も確認ができた。
林業や林道築造によって改変されたのであろう、広島市中央図書館浅野文庫蔵諸国古城之図「五葉城絵図」と比較してもかなり現状との違いがある。おおかたの輪郭は一緒であるが、残された遺構の量に違いがあった。
 南側の郭(馬隠しの堀)付近から、絵図範囲から外れた鉄塔の立つ南西側の尾根へ向かってみた。
明らかに城郭に向いた地形。堀切状に窪んだ後に突出した尾根。中山や富岡が望める。
中山側へ下って行くと、採石場の上側のようで、下方は断崖絶壁。縁を高城砦下方向へ向かうと、巨石が目立ち始める。その一角、石垣大の石で囲った人工的な痕跡の場所があった。カマドの跡なのか、炭焼の跡なのか、城に関するものなのか分からなかった。
 更に下ると、沢となり辺りにサワガニが現れ始める。そしてその沢は、採石場方向へと流れていった。やがて見覚えのある地形が現れた。先回訪れた、弾正砦跡付近の尾根に差し掛かったのである。
 こうしてみると、五葉城は大きな城郭の中の一つの郭部、隣接する高城砦、弾正砦、堂山砦等を構成する一大城郭であったように思えてならない。
通説的に周辺の城郭は、永禄年間に西郷正勝が築いたとされている。
然しながら西郷氏が三河にやってきた南北朝時代には、遠江国境であるこの辺りに城砦は築いていただろうと考えたい。
     

(五葉城南西側)
    

(弾正砦上側)
   


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