後代の作とする説もある「天寿国繍帳」の銘文は、亀の甲羅の柄に4文字づつ刺繍していっており、全部で400字となっています。前半は太子の妃である橘大郎女が、太子と自分はともに欽明天皇と蘇我稻目の娘の血を引いていることを誇る系譜です。
ですから、残りの200字のうちに、太子の母と太子自身が亡くなったこと、橘大郎女の悲嘆ぶり、太子が往生したところが見たいという橘大郎女の願い、橘大郎女の祖母である推古天皇が気の毒に思って宮女たちに命じてこの繍帳を刺繍させたことを盛り込まねばならないため、1字でも無駄にしたくないはずです。
しかし、銘文の末尾では、「画者東漢末賢 高麗加西溢 又漢奴加己利 令者椋部秦久麻 (画ける者は東漢末賢[やまとのあやのまけん]、高麗加世溢[こまのかせい]、又た漢奴加己利[あやのぬかこり]、令せる者は椋部秦久麻[くらべのはたのくま]なり)」となっており、作成した工人たちの名がずらずらと記されています。しかも、釈迦三尊像銘に一人だけ記された鞍作止利のような有名な人物はいません。
聖徳太子が我々の寺にこれこれの土地を寄進したとか、太子が私の先祖を〇〇の役職に任命した、といったような文書なら、紙一枚書いて古く見せかければ良いだけです。実際、後代にそうした文書がたくさん偽作されていますが、手間暇掛けてこんな字数の無駄をした銘文を刺繍した豪華な偽物を作るはずがないと考えるのが普通でしょう。
しかも、絵柄は漫画のようであって稚拙です。これに対して、繍仏などに見られる奈良時代の刺繍は、きわめて精緻であって見事な美術工芸品となっています。かの大山誠一氏は、兄弟たちが次々に疫病で倒れたため、太子に救いを求めようとした光明皇后が、橘大郎女という若い女性の姿を借りて自分の思いを託し、この繍帳を作らせたなどと、古代小説のような妄想をしていました。
私が光明皇后なら、「私が作らせたなら、こんな稚拙な絵柄の刺繍はさせない!」と怒って名誉毀損で訴えたいところです。太子への思慕が強すぎると、その思いを銘文に盛り込んだりせず、工人たちの名前をずらずら並べて字数を使ってしまいたくなるんでしょうかね。
それなのに後代作説がかなり盛んでした。古い要素があることも確かなので、東野治之氏などは、原型が推古朝にあったことを認めたうえで、現在の銘文には新しい表現と考えられる部分があるため、天武天皇の頃に文言を訂正して模作したと推定しています。これは真作説と偽作説の中間説ですね。
その「天寿国繍帳」について、神仙思想的な絵柄の面から、中国→韓国→日本という流れを追った最新の論文が、
徐玉茜「天寿国繍帳と三国時代の韓半島―渡来系工人と日月像を中心に―」
(『奈良學研究』第26号、2024年2月)
です。徐氏は帝塚山大学大学院の博士課程に在学中であって、この論文は修士論文に基づく由。
「天寿国繍帳」は現在は断片しか残っておらず、その銘文を記録した文献がいくつかあるだけですが、工人たちの名前は同じです。東漢末賢・高麗加西溢・漢奴加己利・椋部秦久麻ですので、秦氏、東漢氏、高麗氏、漢氏であって、すべて渡来系なのです。徐氏は最後の「令者」、つまり監督者については、繍帳の断片のうち、亀の甲羅部分がのこっている箇所に「利 令 者 椋」とあって、記録通りであることに注意します。
徐氏は、蘇我氏は百済・伽耶の出身であるため、父母とも蘇我氏の血を引く太子は百済・伽耶系とする門脇禎二説を引きますが、蘇我氏の出自については明確な証拠がなく、諸説乱立の状況である以上、これで決まりといった引用の仕方は避けるべきですね。あと、蘇我氏は東漢氏を合併したと述べていますが、配下に置いたと記すべきでしょう。
徐氏は、制作者として名があげられているのは、すべて渡来系である点を改めて強調したうえで、高句麗の影響もあると指摘した吉川敏子「天寿国繍帳制作の一背景」(『文化財学報』31号、2013年)をあげます。この論文については、このブログで以前紹介したことがあります(こちら)。
さらに、大橋一章・谷口雅一『隠された聖徳太子―復元・幻の天寿国』(日本放送協会、2002年)のうち、谷口氏が、百済の故地にある韓国の国立扶余博物館館長の徐五善氏に「天寿国繍帳」を見せたところ、鐘堂の部分が百済山水山景文塼に描かれた建物に似ていること、繍帳の鳳凰の図が扶余陵山里寺院跡出土の百済金銅大香炉の頂上の鳳凰と似ていること、また、百済武寧王陵から出土した王妃の枕に描かれた鳳凰と似ていると指摘されたことを紹介します。
谷口氏自身、王妃の枕に描かれた変化生(へんげしょう:奇跡として空中などにポンと生まれること)に似ていることを指摘しています。
以上が前置きであって、徐氏はこれまで注目されていない月像に注意します。月像というのは月の絵であって、繍帳では、丸の中の中央に首の長い壺が描かれ、左に大きなウサギ、右に枝と花が描かれています。
この月像については、1949年の青木茂作『天寿国曼荼羅の研究』(鵤故郷舎出版部)が既に中国の画像石や高句麗の古墳壁画などと比較して詳しく論じてています。
月像があれば日像もあったはずですが、現在残っている繍帳の断片には見当たりません。ただ、玉虫厨子では須弥山図のうちに日像が描かれています。この日像・月像に関する最近の研究としては、西川明彦「日像・月像の変遷」(『正倉院年報』第16王、1994年)があります。
徐氏はこれらの研究を承け、月像の検討を始めます。まず、中国では『楚辞』「天問」に「菟、腹に在り」という句が見えます。前漢の馬王堆漢墓1号墓から発見された帛画にはウサギとヒキガエルが月の象徴として描かれていました
西川論文は、漢代の月像の遺品については中国中央の陝西省甘泉宮で出土しているほか、北地の中国吉林省集安、そしてそれに隣接する朝鮮の平壌に集中することに注意します。この時期は、漢が朝鮮北西部に楽浪郡を置いて北部を支配していた時期です。
中国江蘇省では、左側に不老不死の薬をキネで搗くウサギ、右側に月桂樹を描いた5世紀後半の画像磚がでており、6世紀後半の高句麗内里1号墳壁画には、丸のうちに左側に月桂樹、根元には薬瓶の下部のようなもの、右側には動物の足のようなものが見ますす。山東省にまで広がっていたのです。
さらに時代が下ると、不死の薬の入れ物を示す瓶や月桂樹などが描かれるようになり、唐代の鏡には中央に月桂樹、左側に飛天、右側にキネをつくウサギが描かれている例も見えるようになります。
「天寿国繍帳」はそうした形ではないので、唐代以前の古いタイプですね。しかも、中国の伝説によれば月に生えている巨木である月桂樹のはずでありながら、ひょろっと長く伸びた1本の草花のように見えるのは、唐代の鏡などの文様を見ておらず、理解できていない証拠です。「天寿国繍帳」を後代になって作ったなら、唐の様式が反映していそうなものですが。
このように、月像図は中国→韓半島→日本へと伝わるうちに変容し、「天寿国繍帳」の月像となったのです。月でウサギが餅を搗いているということになったのは、もっと後になってからのことです。