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夷狄に服属儀礼をさせる施設でなく、文化威力を見せつける噴水か:外村中「飛鳥の須彌山石」

2024年05月24日 | 論文・研究書紹介

 以前、「スメラミコト」は推古朝において仏教との関連の中で用いられるようになった「天皇」の語の訓であって、世界の中心とされた須弥山(スメール)に基づくとする森田悌氏の説を紹介しました(こちら)。

 律令制では皇后は「こうごう」、皇太子は「こうたいし」」であって、遣唐使によって確立した当時の漢音で発音しているのに対し、「天皇」は「テンノウ」であって、「四天王(してんのう)」と同様、朝鮮経由で入ってきて仏教界で用いられた古い呉音で発音されているのは、成立が古く、仏教との関係の深さを示すという森田氏主張に私はは賛成なのですが、「スメラ」は果たして「須弥」に基づくのかどうか。

 その森田氏が、推古朝や斉明朝に建造されていたことに注目した須弥山石に関する論文が出ていますので、紹介しておきます。

外村中「飛鳥の須彌山石」
(『日本庭園学会誌』21号、2009年)

です。掲載誌を見れば分かるように、外村氏は庭園史の研究者なのですが、インドや中国の原文を読みこなす語学力があって博学であるため、関連するインド仏教の問題についても、きわめて専門的ですぐれた論文をいくつも発表しています。

 今回の論文は、日本の須彌山石(外村氏は旧字にしているため、其に従います)を扱っているものの、そうしたインド仏教に関する素養が生かされています。

 まず、明治35年(1902)に奈良の飛鳥村の石神遺跡で発見された須彌山石について、最近の古代史学界の説は、これは『日本書紀』に見える「須弥山像」であって、飛鳥の朝廷に対して地方の夷狄が服従を誓う儀礼の場に置かれ、その儀礼に用いる水と関係する噴水のできる装置、と見ているとします。そして、その儀礼は、須弥山の上の方に住む帝釈天や四天王と関連する神聖な、あるいは呪術的なものだったと見ます。

 外村氏はこれに反対し、まず、『日本書紀』に見える例を検討します。初出は、推古天皇20年(612)是歳条に、百済から来た者が「山岳の形を構えることができる」と述べたため、須彌山のカッチおよび呉橋を南庭に設けさせた、とある記事です。

 次は、斉明天皇3年(657)7月3日に、都貨邏の男二人と女四人が筑紫に漂着したため都に呼び寄せ、15日に須彌山像を飛鳥寺の西に作り、盂蘭盆会をおこない、日が暮れれから都貨邏人たちのために宴を催した、とあります。

 次は同じ斉明天皇5年(659)3月17日に、甘樫丘の東の川のほとりに須彌山を造り、陸奥と越の蝦夷のために宴を催したとあり、同6年(660)5月には、石上池のほとりに須彌山を造り、寺の塔のように高く、粛慎の47人のために宴を催したとあり、阿倍比羅夫の遠征の成果によるようです。
 
 斉明紀に記される三例については、同一物であろうとする説もありますが、石上遺跡で発見された須彌山石をそれと見る説も、推古朝の時のものと見る説もありますが、外村氏はそのどれかであった可能性はあるとします。現在残っている須彌山石は、上中下の三段でしが、中段と下段がうまくかみあわないため、本来はその間にもう一段あったと推定されています。

 服属儀礼だとする説の根拠は、敏達天皇10年(581)閏2月条に、蝦夷数千人が辺境に侵入したため、首領たちを呼び寄せたところ、彼らは恐れかしこまり、泊瀬川の中に下りて三諸山(三輪山)に向い、水をすすって今後は天皇に忠誠心をもってお仕えします、と誓ったとあることです。また、また、飛鳥寺の西は神聖で誓約がなされる箇所であり、須彌山石はその近くに造られたことがあげられます。
 
 しかし、外村氏は、須彌山像を用いて服属儀礼をおこなった記事がないと指摘します。また、盂蘭盆会は、死後に悪所に生まれて苦しんでいる父母などを救う儀礼であって、服属儀礼とは関係ありません。さらに都貨邏人の場合は、たまたま漂着したのであって、国を代表する使節ではないため、服属儀礼をさせる必要はないのです。
 
 そこで外村氏が注目するのが、隋の煬帝が塞外民族のために散楽(サーカス)を大々的に行わせていたことです。しかも、『隋書』によれば、既に梁代の段階で元旦の儀礼の中で、「長蹻伎」「跳鈴伎」「跳剣伎」「擲倒伎」などの間に「須彌山伎」が演じられています。これらの技は、明らかにサーカスのような技です。「長蹻伎」について外村氏は竹馬のようなものかとしていますが、これは綱渡りです。

 いずれにしても、煬帝が大がかりに行った散楽は、東突厥の首領を見せつけ、文化力を誇示するものでした。四方に噴水する装置である「須彌山石」はそれと同じ状況で利用されていますので、服従させるためのものという点は確かですが、誓約儀礼をさせるための装置とは考えられないと外村氏は説きます。

 外村氏は、須彌山石の模様を東大寺の蓮弁図に見える須彌山などと比較し、『倶舎論』などで説明される須彌山とは異なるとします。そして、須彌山石の実態は不明としたうえで、この装置を当時の人々が須彌山に見立てていた可能性はあると説いてしめくくっています。

 こうして見ると、須彌山石は、天皇の訓である「スメラミコト」を「須彌(山)のような尊い方」と見る森田説の強い根拠とはできないことになります。ただ、森田氏が「天皇」は対外的な称号とした点は、須彌山石が蝦夷や都貨邏をもてなす宴の場の施設となっていた点と共通するものがありそうです。

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