意識を覚醒させる苦痛

2023年11月07日 | 苦痛の価値論
3-6-5. 意識を覚醒させる苦痛    
 眠った無意識状態から刺激を与えられて意識は回復し目覚めるが、その手段となる刺激は、快ではなく、不快、苦痛の方がスムースであろう。快では、心地よく微睡み、眠ることになる。逆に苦痛は、覚醒させる。痛みは、ひとを快の夢うつつから目覚めさせる代表的な手段となる。起きろと、布団をはぎ取って寒風を感じさせたり、体をたたいて起床を促す。禅で眠くなったとき警策で殴打することがある。苦痛が、研ぎ澄まされた意識を覚醒させる。
 この覚醒状態になる意識は、広義の意識である。何かに注意集中するときにいう意識ではない。この世に連れ戻し、眠り等の無意識から意識へと回復するときの意識である。それは、知情意等の心の活動を、その統御主体(私)が、自身の営為として自覚できる状態にすることであろう。無意識でも、心の活動はある。だが、それは、自身には自覚できない。その心の活動を自身が自覚できている主観的体験が、意識になろう。苦痛は、ひとにとって、緊急事態が生じたことを知らせる信号であり、心身を統括している私(統覚主体)は、ぼんやりと他人事にすまして傍観などしている場合ではなく、自分のこととして自覚的に意識をもって対処していくことが必要となる。心身を統括し指令を出していく人格主体の私自身が自らのこととの自覚をもって、自身のうちの全情報を集め、全手段をもって対処していける状態になっているのが、意識になろう。
 逆に意識を失う、なくするという状態になる場合は、そういう現実世界への自覚をもっての対処ができなくなっていく。酩酊とか眠りということになる。それは、心の動きが鈍化し、心身を統率するこの私という人格主体が自覚的な働きを失うことであろう。対象世界を認識する心の動きが鈍化・停滞し、これを統括する自身が麻痺状態になって、やがて無意識にとなっていく。苦痛では、限度を超えた耐えがたいものになるとき、そういうことが生じる。激烈な苦痛を前にすると、統括主体の自身は逃げ出したくなり、その極においては、気絶、失神ということで、無意識になって苦痛を感じないようになる。特に精神的な苦痛はその人格と深く結びついているので、耐えられない苦痛がまといつく場合、人格主体自体を棄てて、他人事にと離人症的になったり、その苦痛体験を自分の意識・自覚のうちには残さず健忘症となったりもする。苦痛を持たざるをえなくなっている自己・主体を棄てて、別の人格を作りこれに新規に生きるというようなことにもなる。