苦痛は、個人も社会も無視できない反価値 

2023年01月10日 | 苦痛の価値論
3-3-1. 苦痛は、個人も社会も無視できない反価値  
 苦痛は、生の損傷において抱くもので、シビアな問題となる。苦痛を抱くのは、本源的には損傷が生じるからであろうが、かりに損傷はなくても、苦痛があった場合、苦痛回避の反応を伴い、嫌悪される反価値であり、苦痛は、無視・放置することができない。他人が苦痛をもたらした場合、許しがたいものとして、排撃・反撃の構えを作らずにはおれない。犯罪者には懲罰を加えるが、損傷よりは苦痛をもってすることが主となる。かつてポピュラーだった鞭打ちの刑は、激痛があってのもので、痛みがなく皮膚が損傷するのみだったとすると、髪の毛を切るのと同じで、さして懲罰とは感じられないことであろう。しかし、その刑の痛みは、こたえ、想像するだけで顔をしかめたくなる反価値で、犯罪抑止への効果をもちえた。
 共同的に生きる者において、快をもたらす物事には手助けなど無用で、余裕もあって、切迫的な関りはしなくてもよい。だが、苦痛は、損傷がなくても、その苦痛を火急に回避するようにと衝動を生じることで、その苦痛から逃走するための反応を持ち、しばしば救助や慰めを求める。無視・軽視することのできない感情である。苦痛がそとから加えられたのであれば、ただちに報復もしたくなる。その本源的な感情を定着させたのが「目には目を」の報復律であろう。損傷には、同じ損傷で報いるということであるが、それ以上に、苦痛には苦痛でということを思い描くであろう。苦痛は、万人が同じものをもっていると前提して、そう報復したくなるのである。人間は、身体的外見からして、かなり同一性が高く、内面も同一とみなしやすい。これが、ひとりは、雨蛙大で、もう一人は、象のようなものだったとすると、同じ刺激では、その抱く苦痛は相当に異なる。したがって自分の苦痛を前提にして相手の苦痛を測ることも、相当に困難となろう。だが、ひと同士は、心身がほぼ同じなので、同一の苦痛をいだくものと想定しやすい。
 同じ苦痛というが、あくまでも、他人のそれは、自分の苦痛から推測してのことである。他人の苦痛を直に感じることはできない。しかし、一般的に、似通っていることが相互の体験の反復から想像でき、弁慶の泣き所を強打すれば万人が涙の出るような痛みを生じるのであり、そう判定していて間違いなさそうなので、痛みは、みんな同じだと前提していくことになる。快は、同じであろうと同じでなかろうと、切迫的な危険な事態などにはならないから、放置しておいてもよい。だが、苦痛は、損傷をもたらし、その苦痛は放置しがたく辛いものなので、自身のそれと同時に他者のそれにも細心の注意が求められる。
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