苦痛の普遍・共通の扱いは、社会の根本的な要請である

2023年01月17日 | 苦痛の価値論
3-3-1-1. 苦痛の普遍・共通の扱いは、社会の根本的な要請である
 苦痛は、各自における個人的主観的な反価値であるが、大きな反価値であり、社会関係のもとで生じるものとしては特に無視しがたいものであって、真剣な対応が必要となる。個人的主観的な苦痛であるけれども、体験的に、相互に同等と想定できるので、これを共通したものとみなして普遍化していく。苦痛は、どこまでも個人の主観内の出来事でしかないが、強い反価値をもったものとして、社会を動かす大きな力となる。主観的な妄念がまれに社会を騒動に巻き込むことがあるが、苦痛の場合は、まれにではなく、確実な影響力をもつ。主観的苦痛のもととなる損傷は、客観的なもので生保護が否定された状態になるから、重大事である。その主観的な警告が苦痛で、その苦痛自体、回避衝動をもった強烈な不快感情であり、無視・放置を許さない。
 苦痛は、反価値であるから、他者との間で償うとしたら、そのマイナスを計量して、それに見合う、これをゼロにするような操作が求められる。物的な損傷であれば、それに見合う物をもって埋めれば、元に返すことができる。同じようにして、苦痛は、そのマイナスを相殺できるプラスの価値の快をもって埋めることができる。それができないなら、その苦痛をもたらした者に同じ苦痛を返すことをもってする。「目には目を」の報復律である。報復律が可能になるには、苦痛が万人に共通と普遍化されているのでなくてはならないであろう。普遍化は困難な個人的主観的な苦痛であるが、これを無理やりにも普遍化し量化もすることが社会的に要請される。
 心身が、人間であれば似通っているから、苦痛も似通っているはずと前提して、苦痛を普遍化する。身体の損傷には、だれもが痛覚をもっていてその刺激を脳に伝達し、それを踏まえてほぼ同じように苦痛の反応・表現をする。似通っていることがその度に確認できる。王さまの歯痛も奴隷の歯痛も同一だと思って間違いない。所有物とか教養だと、かなり個人的階層的に違いがあろうが、苦痛を感じる度合いは、生理的なものであれば特に、万人同じと前提して通る。