苦痛甘受の忍耐に比して、快楽抑止は、些事である  

2022年12月06日 | 苦痛の価値論
3-2-3-2. 苦痛甘受の忍耐に比して、快楽抑止は、些事である  
 忍耐は、損傷になること必須の苦痛を前にして、これを甘受する。回避衝動をともなう苦痛に対して、これから逃げずこれを耐え続ける。苦痛甘受という反自然の持続は、疲労困憊をまねく。忍耐、苦痛の甘受は、意を決して行わねばならないものである。それに比して、快楽の抑止は、余裕をもって行え、深刻になるようなことは少なかろう。苦痛甘受は、現に生じている苦痛を耐えるのであるが、快享受の抑止は、通常、まだ存在していない快を、そのままにして現実化させないだけである。美味のものを食べるのを禁止するのは、まだそれを味わう前である。口に入れてから、美味を楽しむのを禁じるのではない。しかも、それを享受しないでおくことは、単にプラスのものを(場合によっては、余分の好物を)さし控えておくというだけであって、余裕をもって対処できる。快楽抑止は、それを受け止めることは、些事である。
 だが、苦痛は、そういうやさしいものではない。生保存・保護ができないような危機的な状態において、損傷・犠牲の生じる場に直面して出てくるのが、苦痛である。その苦痛の自然にしたがって逃げるならば、損傷を回避したり小さくして生保存がなる。忍耐は、この苦痛の自然、生の自己保存の営為に逆らう。苦痛の回避衝動をもって生の保護されるのを、拒否して、苦痛を甘受するのが忍耐である。その苦痛・損傷のマイナスより大きな価値が忍耐で可能になるから、その未来の目的のために、苦痛を敢えて受け入れる。が、目的のかなわないこともしばしばであり、その場合は、損傷のみが残る。目的が達成できれば、大きな価値が得られるが、それでも、苦痛甘受という大きな犠牲を払わねばならないのである。