欲求の抑制・自制も、その忍耐は、苦痛にする  

2021年06月01日 | 苦痛の価値論
2-1-1-3. 欲求の抑制・自制も、その忍耐は、苦痛にする  
 食欲・性欲で忍耐をいうことがあるが、これは快楽を前にしてのものであれば、その忍耐の対象は、苦痛ではなく快楽であるようにも思える。これらも、忍耐する場面では、やはり苦痛を対象としているのであろうか。
 美味のケーキが目の前にあって、これを我慢する場合、食の快楽をひかえて我慢するのであれば、快楽を忍耐するともとれる。しかし、その美味を楽しみにして待つ場合は、うきうきとすることで、我慢・忍耐は不要であろう。我慢がいるのは、待つことが楽しくなく辛いものになってである。いますぐ食べたいのに、その欲求を無理やり抑えるとき、その時間経過の間は、ときに辛いものになる。その辛さ・苦痛を我慢するということで、やはり、その忍耐・我慢は、苦痛にするのである。
 性欲の場合は、食の空腹とちがい不充足でも生理的な苦痛は生じない。食とちがい性欲は、不充足で平気どころか厳しい環境(刑務所など)では消滅さえする(精神的には苦痛となる。失恋などは、心に大きな痛手となり、その苦悩を耐え忍ぶ)。生理的には苦痛のない性欲(の不充足)だが、性的快楽享受を抑制するときに、これを我慢・忍耐ということがある。苦痛がないのならば、快楽を忍耐するということであろうか。しかし、その享受がすぐにはならず、夜を待っての楽しみなのだとすると、その快楽の不充足は、待つ間は、うきうきと楽しいことで、その待つ間を忍耐とは言わないであろう。それを、時に忍耐・我慢で表現するのは、その待つ間が不満でイライラしたりして辛い場合に限定されるのではないか。今すぐにという快楽欲求・衝動を抑止することの意思の辛さがあって、この辛さに耐えるのであろう。ここでも、忍耐は、辛さ・苦痛にするというべきであろう。
 呼吸欲の場合も、同様である。その欲求不充足ということで息を止めるとき、はじめは苦痛ではなく、むしろ息をするより楽である。その間は、我慢とか忍耐は無用である。だが、それを持続していると、息苦しくなってくる。そこで不充足にと息を止め続けるのは、息苦しさ・苦痛を甘受し続けての忍耐ということになっていく。忍耐は、やはり、どんな場合も、苦痛にするといってよさそうである。