絶望とちがい、自棄は、あくまでも自己責任になる

2021年04月06日 | 苦痛の価値論
1-7-3. 絶望とちがい、自棄は、あくまでも自己責任になる
 生は、自己再生能力をもち、損傷を自身で修復する。だが、やけは、その逆で、自身で自身を破壊する。やきはらう。希望を剥奪され絶望に耐え得ず、その生に本来的な営為になげやりとなり、やけ(自棄)になって、その生の価値あるものを放棄し、ついには、自身の心身全体の遺棄へと向かうこともある。自棄は、精神の癌細胞である。   
 自棄は、苦痛・苦悩に耐えれば、なお先のあるものを、自分の苦痛に屈し自分の絶望に負けて、捨て鉢になり、それまでに培ったすべてをご破算にして投げ棄て、たまった鬱憤を見境なく暴発させていく。苦痛回避の自然的衝動を抑止した忍耐は、反自然・超自然の人間的尊厳の端的である。だが、自暴自棄は、自然を超越しての忍耐を貫けず、自身(の苦痛)に敗けて自身を遺棄する。その尊い生の真摯な営為を投げ棄てて逃亡する。自身で自身を破滅させ遺棄する自棄は、反理性であるのみか、自然以下の反自然の愚行となる。
 絶望は、希望を剥奪されてなる。剥奪するものは、自身ではなく、多く外にあり、絶望させられるのである。その絶望に耐えれば、やがて、また、希望を見出してもいける。だが、やけ(自棄)は、その忍耐を貫徹できず、自身が自身を遺棄する。やけは、自分が出す。自棄になるか否かは、自分の意志の決断しだいである。そとから強いられ、他人に起因することも多い絶望とちがい、やけは、自分が自分をすてるのであり、自己責任である。道を絶たれて絶望した人を非難するのは酷であるが、自分の道を自分でやきはらう自棄になった者は、批判されて当然である。絶望と違い、やけは、ひとのせいにすることはできない。
 やけ(自棄)は、自分を棄てるが、これが、個我のうちのエゴ・利己の放棄であった場合は、無我・没我の境地をもたらしうる。やけ(自棄)の愚行のなかで、個我の執着を棄てるといった健やかな方向へと舵を切り変えることができた者は、エゴの煩悶を放棄するから、安らかな境地に至り、創造的な自己を取り戻す。
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