ひとの超自然の忍耐は、苦痛から自由になっている

2019年11月07日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)
2-4-3-1. ひとの超自然の忍耐は、苦痛から自由になっている
 忍耐してもしなくても感じる苦痛にちがいはない。だが、感性的には同じく苦痛にとどまるが、忍耐する者は、理性意志を堅持して、苦痛と一体的にはならず、これを突き放している。ひととして、理性存在として、苦痛から自由になっている。
 自然的には苦痛からはひとも逃げる。苦痛回避の衝動に従って苦痛は回避する。だが、ひとの忍耐は、必要と思えば、これから逃げないで、苦痛を受け入れ続けることができる。内面においては、苦痛に自然的反応をもち、これを回避したいともがく。だが、忍耐するひとは、これを抑圧して苦痛回避の自然衝動を拒否して、これから自由になって苦痛を受け入れ続けて、これを踏み台として大きな人間的目的を達成しようとする。苦痛を超越してこれに縛られず、理性は、おのれの目指すものを自律的に実現していく。苦痛と快の自然の強制から自由(消極的自由)になり、理性的自律の自由(積極的自由)の世界を忍耐は展開することができる。自分で自由に行動の目的を設定して自律的にことを始め、これの手段として自然を制御して自由にし、その目的を実現していく。苦痛を回避せず快を抑制するという超自然・反自然の忍耐は、ひとが、自然を超越した自律自由の尊厳をもった存在であることを証する。
 ひとも、動物と同様か、それ以上に、感性的自然の苦痛は、自身のうちに感じている。だが、各個我の全体を担うものは理性的精神のもとにあって、これは、自分の感性的苦痛を手段・踏み台にできる。通常は、動物的感性の快不快の支配下にありその奴隷にとどまっているとしても、必要なところでは、その感性の自然的動物的な展開を抑止しつつ、この自然から自由になり、この快苦のそとに、うえに積極的な自律自由の世界を作り出す。苦痛のみでなく、快の欲求からも自由になってこれを不充足にとどめて、この自然を超越する。