強いられる忍耐も人間的自由のうちのこと

2019年11月21日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)
2-4-3-3. 強いられる忍耐も人間的自由のうちのこと
 奴隷は、生殺与奪の権をもつ支配者のもとに苦痛を忍耐する。ここで忍耐をしないとしたら、それは、辛苦の甘受を拒否することであり、辛苦を回避し逃げ回り、あるいは、これを排撃し攻撃的態度をつくることであろう。だが、そういうことをすると強力な支配者から、手ひどい懲罰・暴行をうけ、より辛い状態に、ときには、虐殺されることともなる。無謀な忍耐拒否ということになる。そう想像できる奴隷は、よりましな、マイナス状態の小さい方へと計って、辛苦の受け入れ、忍耐をすることにと向かう。それは、無抵抗・従順な、辛苦の受け入れである。隷属状態の自発的な、自らに由る、いうなら自由をもっての受け入れである。この強いられた忍耐は、その受け入れを、自らに由って決意している点では自由意志のもとにあるし(死を賭して拒否することも可能)、苦痛・辛苦を回避・攻撃する自然的対応を超越している点で自分の自然から自由になっているのである。そのことで、破滅を阻止する。  
 場合によっては、奴隷状態からの解放という自由をとることも可能である。支配者からの逃走のチャンスがあると思えば、その解放の自由にと動く。攻撃的にでて自身は殺害されるかも知れないという不安・恐怖をいだくことであろうが、これを乗り越えての自由への挑戦である。そういう解放(逃走や攻撃)への意志の自由をうちに持ちつつの、蜂起の機会をうかがいつつの、さしあたりの奴隷的苦痛の甘受であれば、その強いられている忍耐は、支配者からの自由もうちに有しつつの人間的自由になるといえるであろう。 
この記事についてブログを書く
« 自然必然と人間的自由との葛藤 | トップ | 苦は、生を覚醒し強化する »