忍耐での目的は単一ではない

2017年08月11日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-4-3. 忍耐での目的は単一ではない 
 忍耐を手段としたその目的は、ひとつになるとは限らない。芋の天ぷらを(手間がかかって煩わしいのを辛抱して)料理するという手段は、目的に、栄養摂取をまずあげうるが、料理する者自身でなく、これを子供にも食べさせるという目的をもったり、夜食に残して利用しようという目的も描ける。さらに、食物繊維を摂る目的を描いたり、自家菜園からのものなら、安全な食という目的もえがける。
 それ以前に、忍耐は、目的ゼロ、無目的のもののあることでもある。動物の忍耐はそうだし、ひとでも、自然のもたらす苦難とか、奴隷化が強制されるものでは、自分から目的など立てて始めるわけがないのである。忍耐は、苦痛とその甘受だけがあれば成り立つ。それでも、動物とちがいひとの忍耐となると、仮に強制されたものでも、目的をいくらでも後付けできるから(家族のためにとか、チャンスを待つために等々)、どんな奴隷的な忍耐でも目的をもちうる。ひとの忍耐は、無目的にはじまるものでも、一応、目的論的に見ていくことが可能となる。
 忍耐は、苦痛を受け入れ、マイナスの事態を引き受けるのだから、その「骨折り」に見合うだけの目的がならないと「くたびれもうけ」となってしまい、忍耐する意欲をそがれる。逆にいえば、大きな価値獲得がなり、多くの目的が魅するものであれば、手段としての忍耐は、大いに踏ん張る価値があるということになる。「賢い子は、よりよく忍耐できる」というが、ひとつには、この諸目的をしっかり描けることで自分の忍耐の価値を大きく評価でき、頑張れることがあろう。忍耐中、途中経過を種々確認し苦痛と忍耐を小分けにし緩急を交え最後まで気力を持続させうることが大きいが、魅する目的を大きく多く描けることも忍耐力を強化する。
 あるいは、目的の周辺についても、気を配れる者は、忍耐の価値をさらに高くできる。その忍耐が間接的にもたらすものがあろうから、これも苦痛甘受のときの支えとしていける。動機も目的の周辺にある。芋を食べるという目的が出てくるきっかけ、これへと誘う動機がしっかりしておれば、目的をより堅持できることであり、手段の忍耐を断念しない支えともなる。芋は腸を掃除するとか、肌の美容にいいと知れば、食べようとの動機を強くし、これへの目的を増やし一層頑張れることになろう。