弁慶の立往生

2012年08月13日 | 勇気について

4-3-8-1.弁慶の立往生-破れかぶれでも、最後まで敵を見失ってはいけない-
 無謀は、万策が尽きたところでなら、最後に残された果敢な戦い方となろう。まだ、他に有効な方法があるのに無策でそうなったのとは雲泥の差がある。逃走したり降伏して捲土重来が可能なのなら、それをとるべきであろうが、それもない窮地に追い込まれたのであれば、「窮鼠、猫を咬む」である。抵抗もせず食べられるよりは、若干でも猫に損害を与えて最後の一矢を報いることである。
 無謀の戦いでも、その破れかぶれの破壊力は、敵に向かっているのでなくては勇敢なものとはならない。見境なくなって、身近なところに当り散らすことがあるが、これは、勇気でも果敢でもない。そとで戦う勇気がなく、うちに帰って弱い家族に当り散らし暴力をふるう、なさけない内弁慶がいる。そういう暴力には、勇気の「ゆ」の字も与えることはない。自分にとり危険なものを恐怖に耐えつつ排撃するのが勇気である。無謀でも、その矛先は、しっかりと危険なもの・敵に向いていての、果敢さ・勇気である。鬱憤晴らし・自暴自棄(やけくそ)でも、通り魔などに堕して血迷うのでなく、真に戦うべき敵に向かったものなら、暴勇とか蛮勇であるとしても勇気ある者と大方が見なすことであろう。
 大きな危険から逃げて小さな危険に向かう無謀もあるが、これは、真の危険から逃げた臆病の無謀であろう。仲間のボスにいじめられ、「橋から飛び込んで」「あいつを刺して」、「勇気を見せろ」と脅されて実行したというような事件が時々報じられる。無謀だが、(脅しに屈しているのであって)勇気のそれには反する。勇気の無謀は、どう見ても勝てることはないとしても、真に危険なもの・真の敵から逃げず、これと戦うことである。冷血なボスに屈することをやめてこれと戦うべきで、それなら、無謀であっても、勇気ある果敢な、立派な無謀であろう。もちろん、「韓信の股くぐり」に耐えたり、逃げるとか警察に駆け込む等の手段が残されているのならそういう謀に精力をそそぐのが賢明である。そういう謀もありえない場に追い込まれた場合は、無謀になる以外ない。戦うべきもの・敵を間違えることのないようにだけ注意して、渾身の力を振り絞って戦うのが、勇気である。
 無謀でも果敢な勇気のそれは、攻撃目標については、しっかりと見定め、最後の最後まで敵に背を見せることなく、攻撃的に果てる。衣川の戦いでの「弁慶の立往生」である。かれは、敵からの矢を全身にあびるなかで、敵をにらみつけながら、立ったまま絶命した。無謀ではあるが、勇敢な立派な最期である。勇気の果敢さは、その最後の最後まで敵に焦点を合わせたものでなくてはならない。
 『葉隠』は、「勇気」を勧める武人のことばをとりあげていう。刀を折られたら手で挑め、手を切り落とされたら、肩で押し倒せ、肩を切り離されたら、口で敵の首の十や十五は喰い切れと(「聞書七」40)。最後の最後まで、気力を尽くして、敵の撃破に尽力するのが勇気である。「武士道は死狂ひ也」とも断じる(『葉隠』「聞書一」113)。万策尽きた最後は、無謀でよい。果敢な勇気は、狂ったかのごとくに猛烈に、死にもの狂いで、しゃにむに最後の最後まで敵・危険なものに挑みつづける気迫と気力をもたねばならない。