「費用対効果」を考えて勇気にブレーキを!

2012年08月23日 | 勇気について

4-4-1.「費用対効果」を考えて勇気にブレーキを!
 大胆・果敢は、対決的攻撃的である。攻撃は、非常のことであり、果敢になるとは、敢えて、無理をしてということでもある。相互に、犠牲の生じることであって、慎重にならなくてはならない。犠牲を敢えて甘受しようというのは、そのことで大きな目的が達成可能になるといった合理性があるからである。むやみやたらに果敢になればいいというものではない。その猛烈な攻撃が目的への適正な手段となっているのかどうかを冷静に判断していく必要がある。益するものがなにもなく犠牲のみが生じるようなところでは、果敢さは停止しなくてはならない。そういうブレーキがしっかりしておれば、果敢さも安心して全力をもって突進できる。
 勇気を発揮するところには、その目的となるものがあり、戦略がある。これに見合う手段として戦術として果敢な勇気は発揮される。その目的は、危険の排撃である。その目的に見合った手段として果敢さがある。目的に応じた手段がとられる。特定の戦術がとられる。このとき問題は、果敢さが、場合によっては、目的相応でなく、目的から外れたものになることである。勇気は、いきすぎると蛮行に堕す。そうならないようにブレーキをかけねばならない。猛犬からボールを取り返したら、もう勇敢に猛犬を棒で追う事は不要となる。だが、勢いにのって、「けしからん犬だ、懲罰だ」と、果敢さをなおも発揮することもある。そこでは、もう、果敢さは、手段・戦術としての正当性を失って、動物虐待の蛮行に変質してしまう。ボールを取り戻した時点で、その勢いにブレーキをかけるべきであろう。果敢な攻撃・戦いは、手段であって、目的ではない。その攻撃を貴族の狩猟のように楽しみにし自己目的にしてはならない。そうならないように、ブレーキをかけねばならない。
 大胆にせよ、果敢にせよ、対決し攻撃するのだから、消耗し犠牲がともなう。目的とするものの価値次第で、犠牲を払う限度も変ってくる。割に合わない犠牲はさけられるべきであろう。火事になって飼い猫が中にいそうだという場合と子供を助け出すのとでは、勇敢になる度合いが異なってこよう。後者なら、自分が大やけどしても飛び込んでいくべきである。だが、ネコの場合は、それだけの犠牲をはらってすることはないであろう。いわゆる「費用対効果」を考えて、勇気は、ブレーキを利かせつつこれを発揮するのが一般である。
 そのブレーキは、勇気の発揮の程度であるのみではなく、それ自体の発揮を差し控えるということまでも含む。目的に比して勇気の発揮で生じる犠牲の大きすぎることを見極める者は、むやみな果敢さは思いとどまることであろう。戦いに勝っても、その犠牲が甚大で割に合わない勝利、いわゆる「ピュロスの勝利」になったのでは、あとが大変である。そういう場合、戦うべきではなかったのである。それは、見かけとしては、臆病ともなる。臆病にとどまる方が大きな勇気がいることもある。「韓信のまたくぐり」がある。ならず者との無益な争いはやめ、その股をくぐるという屈辱を甘受した、後の猛将韓信の青年時代の逸話である。大胆・果敢であったがゆえに、あわなくてもいい惨事にあうことがある。果敢な攻撃的態勢をとると、相手を、攻撃的に挑発することになる。相互が過激になって大きな犠牲を払いあうことになりかねない。些細なことなら、できれば、こちらからは攻撃的にならず、臆病に見えるぐらいに控え目に忍耐しておく方が無難である。匹夫の勇、小勇は、避けるべきことである。よっぱらいはよく喧嘩する。相互にあとで後悔する愚かしいことで、大胆になり果敢に暴力的になりあうのである。しらふの人がよっぱらいには臆病に見えることであろうが、臆病に見えている方が、その場合、醒めていて正常なのである。
 孔子の弟子が、大軍を率いるとしてどんな人と組んで戦いたいですかと孔子に聞いたところ、「暴虎馮河して、死して悔ゆる無き者は、吾與(とも)にせざるなり(暴虎馮河 死而無悔者 吾不與也)」(『論語』述而篇)と答えた。素手で虎を打ったり、大河を徒歩で渡るような、それで死んでも悔いることのないような無謀の命知らずの者とは、共になりたくはないと。では誰と組みたいかというと、続けてこういっている。「必ずや事に臨みて懼(おそ)れ、謀を好みて成さん者なり(必也臨事而懼、好謀而成者也)」。必ず、事をなすにあたって、懼れ慎み、謀(はかりごと)を好み成しとげる者となら共に戦いたいと。