ふらつく人間的理性でもあるが・・・

2010年11月03日 | 快楽への欲求を理性的に抑制(節制論3)
1-2. ふらつく人間的理性でもあるが・・・
 節制は、ごく簡単に誰にでもできる。食の節制のばあい、食欲を少し抑えるだけでよい。でありながら、実際には、多くは、これに失敗して肥満を結果してしまう。節制は、これを理性(知性)が思うだけでは、絵に描いた餅にとどまる。その思いから実行に、観念から実在過程にと飛躍することがなくてはならない。決意・決断、実行力がいる。
 はじめたとしても、おいしいものがあると食欲をそそられ、つい理性の統制もあまくなり、「節制は明日から」となる。少々のゆらぎ、快の誘惑にのることには、大様で、臨機応変であっていいのだが、根本において、実行への不動の意志を堅持していないと、節制は常に「明日から」となり、「そのうち、いつか」となってしまう。
 絶食・禁欲とちがい、「腹八分目」の節制は、現に快楽を味わっていて、この現実の快を「これ以上は駄目!」と中断するのであり、快楽を単に想像してこれを禁じる場合より、よほど強い意志が必要ともなる。
 食欲は、日々続くから、節制の理性的抑制では、持続性が問われる。持続させてはじめて節制の効果はでてくる。欲求の抑制は、我慢・忍耐になる。過激にならず、ほどほどの中庸をしんぼう強く維持することで、節制は、なる。食事のたびの抑制・忍耐を何ヶ月も持続していくのである。この持続の姿勢を支えるのは、もちろん、理性(意志)の一貫性であるが、同時に、意欲とか根気・根性、あるいは、気概・自尊心などといったものもそれを側面からささえてくれることになる。
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