苦痛の受難を、不運・懲罰と悲観もする

2020年12月29日 | 苦痛の価値論
1-4-3. 苦痛の受難を、不運・懲罰と悲観もする   
 損傷も苦痛も、出合いたいものではない。忍耐のために甘受するのでないなら、不可抗力で偶々に生じる不運ということになる。そういう受難の不運続きに、「なんの因果で」と天を恨むことがある。この世界は自身の操作・関与のできない偶然性のもとにあることが多く、それをときに運命と捉えることがある。運命は、ことの運行の命令が、あるいは、(天)命の運びが、ひとを支配する超越的な天・神などによっていると想定したものであり、それが自身に厳しく冷酷であれば、不運、悲運といわれる。その運命(真実には偶然)の出方が周囲の者に比して自分には悪く、損傷・苦痛が多く降りかかってくると思えば、その運を決める天なり神は、どうしてそうするのかと恨みがましく思うことにもなり、悲運の自分に悲観する。 
 損傷、苦痛は、価値物の獲得や快とは逆、褒美の反対で、罰・懲らしめということにもなる。大きな災難に出合った時、ひとは、「なんで自分が。何も悪いことはしてないのに」ということがある。ここには、「悪には苦を。因果応報。苦痛は懲罰」という意識がある。苦痛があって原因がはっきりしないような時、何か罪深いことを自分はしたのだろうと、悲観的に妄想することとなる。不運・悲運なら自分に咎はないが、苦痛を罰とみなすようになると、自分に罪があると懲罰意識をもつことになる。
 苦痛を悲運とか天罰と外からのものとして受け取るだけでなく、この不運を招いている自分を振り返り、軟弱な自分ゆえにという意識をもつこともあろう。おなじ状態に生活しているのに、自分だけが繰り返して不運に襲われるような場合は、その悲運は、自分のうちになにかよからぬことを招く原因があるのだということになろう。それは、おそらく真実で、前向きの反省・推論となりうる。おのれの在り方を、不運に襲われないようにと変えることが求められるのである。糖尿病の不運も、痛風の悲運も、自身の美食が招いたことだと合理的な反省ができれば、同じ美食をしていて元気な者をうらやみつつも、粗食へと自身を変えていくことになる。苦痛は、その生き方をよりよいものに変えることへと促す。苦痛は、よい鞭・罰になっているということができる。