打撃を受けて生は陰鬱・抑鬱状態に

2020年12月15日 | 苦痛の価値論
1-4-1. 打撃を受けて生は陰鬱・抑鬱状態に 
 損傷と苦痛刺激は、特定の部位のそれに限定されていて、手や足が痛いのだとしても、それらだけが萎縮・緊張の反応をするのではない。苦痛感情は、生全体において萎縮・緊張する。個我は、感情的に生き、足のことで悲痛に沈むのだとしても、その悲痛の感情においては、心身全体がその悲痛の陰鬱のなかに閉じ込められたものとなる。激痛・損傷に反応する生は、環境世界を、傷つけ脅かすものととらえ、その生の反応は、警戒的となり防御的になって、萎縮し自己閉鎖する。世界に対して鬱屈した構えをつくる。苦痛にうちひしがれた自身のつくる陰気は、周囲の環境世界をも陰気なものに染めていく。外界は、陰鬱の暗い色眼鏡を通して見られて、輝く太陽のもとにあっても、重々しく鬱陶しい空間と映ることとなる。  
 損傷による苦痛は、その生の意識を占領する。危機的状態に陥ったのであり、それに合わせて意識は、その苦痛の状況にと集中する。足に大けがをした者では、その苦痛がその生のすべてとなり、外に向けては消極的となって縮こまり苦悶状態に陥る(勿論、ひとは、動物であるだけではなく、精神世界に生きるものでもあり、後者が主となっている場面では、足の少々の怪我は、たとえば、それが自身の研究での大発見のきっかけになったのであれば、その喜びの高揚感を盛り立てる痛みとなることであろう)。苦痛感情にとらわれこれに集中した生は、本来もっている生動的な発揚の在り方を放擲し、苦痛への気がかりのもとでの重くのしかかる息苦しい世界の中に落ち込み、その未来も、現在の激痛の延長線上に陰鬱の世界として描く。過去の快も楽しさも遠のいて、現在の苦痛がすべての意識を奪う。
 苦痛・損傷を受けたということは、自身がこの世界から歓迎されるどころか否定され攻撃されたということである。あるいは、自身が攻撃されて傷つくことになるような弱者・敗者であることを自覚させられる。脅かす環境のなかで、自身を情けない弱者として自覚して滅入ってしまう。快・楽を享受する極楽の住人を周辺に見ながらも、この世は、自身には苦界だと悲観し陰鬱にと落ち込むことになる。