苦の無化を説く仏教

2019年06月27日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)

2-3-4-2.苦の無化を説く仏教

 仏教は、この世を苦の世界とみる。その苦の世に生きる以上は、これに忍耐することが求められるが、その苦に生きこれを克服する方法として、仏教は、この苦を無とみなす方法をとる。激痛となるはずの火傷に「火もまたすずし」と平然としてこれに耐える。苦を苦と感じない方法をとって、この苦の世界を超越する。苦から逃げるのではないから、苦を甘受するのであり、忍耐ということになるであろう。ただし、苦痛を感じない形になるのを理想とするから、単純に忍耐ともいいにくい。通常、忍耐は、苦痛を受け入れることで、これを手段・犠牲にして大きな成果・目的を実現する。苦を無化しての仏教的な忍耐は、苦から逃げずその目的を達成するが、苦と感じないで済む方法をとる。
 苦を苦と感じなくできるのは、激しい苦行に忍耐し苦の体験の反復で大概の苦はもう苦と感じなくなることもあろうが、なんといっても、仏教の場合、苦に実体はなく自身の妄想になると、苦を、「色即空」と空無に観じることで無化することである。怒りの忍耐の場合は、苦に感じる気障りなものを前にこの不快・苦痛を我慢するのが普通だが、仏教的な空無化のやり方は、気ざわりと解することをやめ不快になることをやめて、苦も苦の根源も無だととらえて、怒りをおさめて、ことを成就する。テレビ画面の老人が年に似合わない派手な服装をしていて不愉快でむかつくとしても、そう思い、気障りになるとしても、派手かどうかとか、それを不愉快とするのは、妄念・妄想である。そんなものは、抱く方が間違っている。気障りにも立腹にも根拠はなく、妄念であり、無くてしかるべきものである。主観内の苦とその原因を無化してしまう、忍耐にならない一種の忍耐といえようか。
 さらにラディカルには、苦の生じる根源をなくすることも仏教では行う。それは、諸種の欲求をなくすることである。個我・小我をなくする方法である。無我になり、欲望の発生源を断とうというのである。欲望をもつから、その不充足に不快・苦痛をもつことになる。個我の欲求は、際限がない。どこかでこれを抑制することがいるのは確かである。仏教は、欲が苦の根源と見て、「色即空」とできるだけ無欲になろうとする。免許を取れば自動車が欲しくなる。それがかなわないと不満・不快となる。忍耐が必要となる。だが、免許を取らないなら、車への欲望は生じないから、車をもてないことへの苦も忍耐も無用となる。出家仏教は、財産をすて家族をすてる。名誉もお金もすてる(真に捨てるひともあるが、これらに執着しなければ、捨てたことになろう)。そうすれば、それらにまつわる欲は消滅し不足感はなくなり、空無のやすらかな状態になる。この世の業火の消えた安寧・涅槃の境地に到る。
 この仏教のいう苦の無化、欲望の無化は、傲慢・贅沢の生においては、必要であろう。が、節度をもったささやかな生についてまで、これを徹底するのでは行き過ぎとなる。生は、損傷に不快・苦痛をいだき、生の維持は欲求をもって行う(水が欲しいのは、水分が体に不足しているからである)。苦自体・欲自体を空無にと拒否するのでは、人の生自体を否定することになってしまう。