忍耐が、苦痛を作るのでもある

2019年06月21日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)

2-3-4-1. 忍耐が、苦痛を作るのでもある

  自然世界では、苦痛・不快なものがあれば、これから逃げるか排撃するから、苦痛は短いものに終わる。あるいは、用心深い場合は、苦痛となるものに近づかないから、苦痛は体験せずに済むこともある。
 だが、ひとは、苦痛を手段・踏み台にすれば大きな価値が獲得できるといったときには、この苦痛を回避せずに、あえて受け入れる。苦痛に近づきこれを甘受する。火の中に宝物があれば、火傷をものともせず、火中に飛び込む。自然に生きるのなら受け入れなくてもいい苦痛を、あえて引き受けるのであるから、ひとは、自身のうちで自らに苦痛を生起させているということになる。もちろん、苦痛を快と受け取るのではなく、身を痛めつける有害なものであると承知しての甘受である。   
 自然のままに生きるとしたなら、おそらく、これほどに苦痛・不快を忍ぶことはないであろう。のんびりと安楽に暮らせばいいものを、ひとは、あえて、苦痛・不快を受け入れる。むしろ、忍耐が、その苦痛を創造しているともいえる。我慢しないひとは、苦痛を避ける。だが、我慢できるものは、大きな目的の不可避の手段であると分かれば、これを忍耐する。忍耐しようという意志が苦痛を引き寄せたり、苦痛を創造しているのである。忍耐しようという構えをとる者は、傷害・妨害から逃げずこれを受けいれる。そのことで当然、苦痛が心には発生する。忍耐が苦痛を作ったのである。
 高いところにのぼるには、はしごがいる。忍耐を要する苦痛のはしごである。自然の存在は、高いところへのぼろうとはしないから、はしごはいらない。苦痛のはしごが近づいたらこれから逃げていく。だがひとは、あえてこれをどこかに見出して高いものの見えるところに据えてのぼっていく。苦痛を長々と忍んで理想・目的へ向かおうと忍耐するのである。