5-3-5.向こう見ずも、理性のもとでは、優れた勇気として生きる。
我々は、『葉隠』のように、直情をもっての向こう見ずの勇猛果敢さを尊重し、勇気に、小賢しい分別など無用とする傾向がある。些事なら短気短絡の無鉄砲でもいいだろうが、戦争や社会的な抗争では、思慮分別を欠いたのでは、敵に裏をかかれ、思う壺にはめられ「戦う毎に必ずあやうし」となろう。『葉隠』も、単純に無思慮・無謀なのではない。戦争での謀・思慮は主君のもので、武士の分は、思慮深い主君の忠実な手足となることにあった。手足が勝手に動いたのでは、戦いは混乱する。無心の「死狂い」の勇がふさわしかったのである。
危険に直面したとき、思慮することは不可欠だが、ときに思慮分別は、躊躇したり戦いを回避する口実にされることがある。そういう場合は、思慮は、勇気を妨げるものに堕す。危険は未来の禍いの可能性であり、未来のことは、いくら思慮しても不明で見えないところが残る。その見えないところの向こうについては、あとは実践する以外ないということになる。もう思慮・躊躇はやめ、腹を据えて、現実の危険のなかへ身を投じるのみである。見えない向こうについては、のるかそるかの賭けで、向こう見ずになる以外ない。思い(を)切り、そこへと飛躍する勇気が必要となる。
勇気は、熟慮をへた後のものとしては、思慮を超えて無思慮となる。謀を超えて、無謀である。向こう見ずである。理性を踏まえたあとの無謀・無鉄砲は、短慮な蛮勇とちがい、覚悟をきめた純粋な勇気になる。
5-3-4.ひとの勇気は、ことを深く洞察し、深慮遠謀し、堅固な意志をもつ。
危険・危機の非常の事態に出合うと、ひとはしばしば過度に恐怖してパニックに陥る。勇気をもち、まず理性的に、冷静に、その危険のあり様を洞察する必要がある。雷で、恐怖反応のままに大木にしがみついていたのでは自殺行為になる。その危険がなにであるのか、しっかりと洞察して、恐怖を抑え、危険と恐怖から一歩距離をおいて理性的に対応をとっていく勇気がいる。雷なら、「へそをとられないように」との俚諺でも思い起こし、大木を離れ、へそを隠し地面にはいつくばるような危機対応をとることである。それ以前に、雷にあいたくないのなら、雷雨となりそうな積乱雲の下に行かないように行動スケジュールを立てるべきでもある。いずれにしても、危険への勇気ある対応には、冷静な理性が終始リードしていくことが大切である。
戦闘は、いきり立ってのがむしゃらの盲進では、おぼつかない。勇気は、敵を確実に攻撃できねばならない。動物でも獲物をねらうには、知恵をしぼり細心の注意をはらう。ひとは、その理性を総動員して、深慮と遠謀をもって対処し、その意志を貫いて、所期の目的を達成することができる。敵味方の力量を洞察し、戦いをするその目的と、それに払ってよい犠牲の限度などを考量して、勇気の推進のみでなく、その中断・終結までを合理的に展開する必要がある。大胆・果敢の勇気が暴れ馬に堕さず駿馬になるのは、理性という御者しだいである。
5-3-3.恐怖への特効薬は、理性である。
古代ギリシャの格言に、「理性(logos)は、恐怖の薬である」というのがあったと記憶する。勇気では、恐怖の抑制が肝要となるが、理性は、自然を超越した高みから、この自然(恐怖)を制御し、勇気をリードする。
恐怖は危険にいだく。危険なものが突然現れると、過度に危険と捉え驚愕しがちになる。このとき、理性は、これに距離をおいて冷静に客観視し、驚愕をおさめることができる。過度に恐怖するようなら、理性は、危険を小さくえがき(自分には守るべきものはないと思えば、危険は無にすらできる)、想像を停止して、恐怖を鎮めることが可能である。過度の恐怖は、無知で妄想をたくましくすることによる場合が多い。柳を幽霊にと妄想して震えあがる。理性は、妄想を抑制し、現実をしっかりと洞察して、危険と恐怖に適切な対処をする。かつ、恐怖しても、理性は、強い意志をもってその心身の動揺を小さく抑止することができる。理性は、恐怖の特効薬となる。
理性・知的精神を活発に働かせるということは、脳でいえば、(大脳新皮質の)前頭葉を活性化することである。それは、恐怖など情動の座の(大脳辺縁系の)扁桃体の興奮を抑止することにつながり、恐怖の沈静化に結ばれる。注意・意識が、危険・恐怖から、それを離れての理性の普遍的理念的な事柄、あるいは、感覚的現実に向くなら、危険の妄想はやみ、恐怖に気は向かなくなり、おのずと恐怖はおさまってくる。
5-3-2.ひとの勇気は、人間的尊厳の尊さと厳しさを語る。
尊厳は、単なる至高ではない。剣玉競技世界一は、最高・至高だが、尊厳ではない。至高の国王や神に尊厳が付与されるのは、支配者だからである。その支配を賛美する者は、尊厳(dignity)の勲章を付与し、愚劣と嫌悪する者は、侮蔑(indignity)の批点を打つ。ひとが尊厳をもつのは、至高の理性をもち、その理性で自己支配し、自然を立派に支配し保護できるからである。
ひとの理性的な勇気は、尊厳を具現する。自身の理性によるその感性的自然(恐怖)の見事な支配・制御は、尊い。ひとは、自分の勇気を自分でつちかう。動物は、食や性の衝動が恐怖に勝れば勇気を振るうことになるが、どこまでも自然の中で衝動に動かされているだけである。だが、ひとは、自然を超越して、理性のもとで自律の自由をもつ。自然(恐怖・危険)と対決し、これを制御する。生来的にはない反自然の勇気を、理性は、自律的に自身で創造することができる。
自律の理性とその勇気が尊厳をもつには、その支配が厳かで立派でなくてはならない。理性による支配・制御は、感性(恐怖)に対して、どこまでも厳(きび)しく厳(おごそ)かでなくてはならない。理性的勇気は、危険排撃に大胆果敢で、厳しく厳(いか)めしくおのれを貫徹する必要がある。至高で尊い理性とその勇気は、その厳格で厳かな支配・制御をもって、尊厳となるのである。
5-3-1.ひとの勇気は、理性の賜物である。
ひとの勇気は、理性の自律のもとにある。動物は、自然のままであり、恐怖すれば即逃走し、恐怖にまさる衝動が生じれば、これを優先してその動物なりの勇気ある行動をとる。だが、ひとの勇気は、恐怖の自然自体を超越する。理性は、恐怖の逃走衝動を抑圧することができる。恐怖を忍耐する反自然の対処を貫徹して理性的な勇気をもつ。ひとは、動物でもあるから、危険におびえて自然のままに逃走することを選ぶ場合もある。しかし、これも自律理性の選択である。勇気が選べ勇気の出せるところで、消極的ではあれ臆病を選んだのである。ことの結果は自分自身に起因しているので、その責任を感じたり良心がうずくようなことになる。
こわ(強)い危険なものは怖く、こわいものからは逃げるのが自然である。だが、ひとは、理性をもってこれに逆らい挑戦する。こわく危険なものの前でも弱いままにとどまってはおらず、これに勇気の力を加えて、危険なものを凌駕しようと大胆・果敢に戦いをいどむ。
動物は危険が大きいほど小さく萎縮してしまう。だが、ひとは、危険が大きくなるほどに、その自然に対抗し挑戦の意欲を高め、大きな勇気を出して、果敢な戦いにと力をこめていくことができる。本源的に自律の自由をもった存在として、自然の強制を払いのけ、大きな危険にも対抗できるよう変貌して、理性的自律を貫徹する。