16日、西院中学校勤務時代の教え子と10年ぶりの再会がありました。
昭和49年卒業の彼・彼女たち、結構若々しくて、還暦という言葉で抱くイメージ
とはほど遠い容姿と表情でした。
でも近況を語る言葉の端々から、決して順風満帆な人生ではなかったことが読み
取れ、それをサラッと語る逞しさに感心させられていました。
女性たちはそれぞれ若々しく、とても還暦の年齢には見えませんでした。
男性は風貌だけを見れば私と年齢差がぐっと縮まったような人もあったり……。
彼らが在学し卒業した昭和50年前後のごろは、全国的に「荒れた中学校」
が問題となっていたころです。
昭和50年から始まったテレビドラマ「金八先生」、その素材になるような
出来事は、彼らの在学中の西院中にもゴロゴロあったと思います。
対教師反抗暴力だけは起越させないようにと、私や数人の生きのいい教師
が頑張ったおかげだと自負しています。
そのころ、私が30歳代後半に入ったころでした。
一学級担任という存在よりも、校内で起こる問題行動の対処と事後指導を
一手に任されて走りまっわていました。
問題を起こし家庭裁判所送致になった生徒の多くとは、幸いなことに
私とは信頼関係ができていたようでした。
そのことが家裁調査官にも評価されて、初犯の生徒は「不処分」になるケース
も多くあったことを懐かしく思い出します。
30歳代後半といえば、教師歴十年以上、教師としては脂がのっている中堅的
存在のはずです。
私と教師になった同期の仲間達はそれぞれの学校で、生徒主任や学年主任など
の役職を担当していました。
ところが西院中では、当時約30人の教職員の組織の中で私より若い先生は
わずか2~3人という状態で、37歳になっても新採・初任者教員並みの存在と
扱いと存在でした。
何か事があれば真っ先に、学年や学級に関係なく、勤務時間外であろうと
真夜中であっても引っ張り出されて生徒補導に奔走する存在でした。
それも連日連夜にわたることもあって、不眠不況が常態化していたこと、
今になれば懐かしい思い出ですが当時は不満が募っていました。
さて後半はガラッと話題を変えて、まずは孫の中学校の卒業の様子から。
私の母校でもある衣笠中学校、卒業生を待ち受ける在校生やOBの卒業生たち。
その態度や服装から落ち着いた学校とわかり、しっかりと教育がなされている
ことを感じ取りました。校門までの通路を在校生と保護者が並び拍手で見送り。
担任の先生の晴れ姿と表情はいつ見てもいいですね。
担任先生の二番目後ろが孫です。
次はさくら情報です。
京都の桜開花の隠れた標本木といわれる平野神社の「魁桜」と御所の
旧近衛邸跡の「糸桜」(ともに枝垂れ桜一重咲)、例年であれば3月
20日ごろには開花するはずが、今年は19日現在開花していません。
「魁桜」は一輪だけ咲いていたのでぱちりと。
「糸桜」は遠目で眺めると蕾が膨らみ木全体がピンクがかって見えますが
まだ開花には至っていません。
開花すると下の写真のようになりますが。
というわけで平野神社付近で今見られるさくら情報を。
まずはカンザクラ(西大路に面したカンザクラ)
京都新聞や関西系の夕方の情報番組で取り上げられた「モモザクラ」
は満開です。
開花待たれる「ソメイヨシノ桜」は蕾膨らむ、もう1週間後でしょう。
最後に春の緑の代表「柳」を。