28日の午後陸前高田を発って夜遅く小平に帰ってきました。
東京の従兄弟達のお見舞いを届け、
現在の惨状も見てきました。
以下は私がいた日の陸前高田の画像です。
到着した翌日の27日は瓦礫の片付けのボランテイアをやってきました。
やっていた場所は津波が到達した境界辺り、高台との境目です。
重機で片付けた後の後始末で、残った瓦礫を集め、
更地にしながら瓦礫の中の写真とか本とか、
思い出になりそうな品は拾い集めておきます。
瓦礫はまとめて、重機で扱えるようにします。
そんな人手による片付け作業は陸前高田では始まったばかりです。
今後どれだけの人手が必要になるか見当がつきません。
人手も時間もかかります。
津波の跡は一面の焼け野原のような光景です。
一日働いて気づいたことは、ここでは現在車がなければ活動できないことでした。
そして車は大渋滞を引き起こしています。
内陸からのルートは現在一関ルートと盛岡遠野ルートの二本しかありません
気仙沼からの海沿いルートは橋が流されて通行不能です。
その二本を通って復興作業の自衛隊その他の車両、物資や水を運ぶ車両、
道路の復活や給油所の復活によって、
現地の人々へのお見舞いに来た車両がどんどん入ってきます。
その二本は途中で合流するので渋滞の元になっています。
その流れが津波を免れた高台に集中してきます。
そこには高田一中の最大の避難所、仮設住宅、仮設の市役所、銀行その他、
都市機能が集中しています。そこでも渋滞が起こっています。
ボランテイアセンターは中心から10キロも離れた、盛岡ルート沿いに出来ました。
毎朝そこに車で通い、ボランテイアが必要な場所を聞いて、
そこまで自分の車で行き、終わったらセンターまで戻らなければなりません。
ボランテイアの要請があって初めて、そこにいって作業をするわけですから、
センターから出発しセンターまで戻って、報告するのがボランテイア活動の大原則です。
被災地周辺は安全のためにテント泊は禁止されています。
個人のボランテイアは車中泊しかありません。
私は災いを免れた親類の家に泊まるよう勧められましたが、
ボランテイアに行ってそんなことは出来ません。
たまたま被災地との境目に温泉の湯治宿が残っており、
そこに二日間泊まることが出来ました。
ボランテイアセンターまでは、高田まで一緒に来た従弟が送ってくれました。
センターでは不足していると言う介護の仕事を希望しましたが、
もう人は足りていて、瓦礫片付けの仕事がいくらでもありました。
同じ場所に行く個人ボランテイアの車に乗せてもらって、
瓦礫の片づけをやったわけです。
終わってセンターから宿まで一時間半歩いて帰りました。
ここでのボランテイアは車なしでは続けられないことが分かりました。続く