ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載追補1)

2022-11-06 | 〆近代革命の社会力学

三 アメリカ独立革命

(5)独立派黒人の寄与
 アメリカ独立革命=戦争では、当時宗主国英国でも存続していた黒人奴隷制は直接の争点とならなかったが、英国当局者が逃亡して英国軍に参加した黒人奴隷の解放を約束する声明を発したことで、黒人奴隷の多くは英国軍側に付くこととなった。
 もっとも、英国側の狙いは黒人兵士の徴発にあり、奴隷制度そのものの廃止は約束しておらず、あくまでも英国軍参加を条件とする個別的な奴隷解放という軍事的な目的からのある種取引にすぎなかった。それでも、解放を期待して英国軍に参加した黒人(黒人王党派)はおよそ2万人に及ぶと見られる
 これに対して、何らかの形で独立革命に参加した独立派黒人は、独立派の視点から「黒人愛国者(ブラック・パトリオット)」と呼ばれ、勢力としては、すでに解放された自由黒人を中心に黒人王党派の約半分の9千人と推計される。そのうち大陸軍または民兵団で戦闘に参加した兵士は5千人とされる。
 独立戦争初期こそ、東部植民地では、奴隷か自由人を問わず黒人が独立派民兵団に参加していたが、独立派は黒人の徴用が奴隷反乱を招くことを懸念したため、大陸会議は黒人兵士の徴用をいったん停止した。しかし、英国側の黒人徴用策に対抗するため、方針を撤回し、自由黒人の大陸軍参加を認めた。
 一方、個々の植民地のレベルでは、人手不足を補う意味からも黒人奴隷の民兵団参加を認めるケースもあり、実際、マサチューセッツ植民地は1775年に黒人兵士だけで構成された民兵部隊バックス・オブ・アメリカを組織した。
 革命派の正規軍に当たる大陸軍でも、指揮官を除き先住民を含む有色人種のみで構成された第一ロードアイランド連隊はその兵士の大半が黒人で組織されたため、史上初の黒人連隊と呼ばれることもある。同連隊は独立戦争の全期間を通じて活動し、多くの戦闘に参加した。
 稀有な存在としては、大陸軍総司令官ジョージ・ワシントン自身の奴隷で、独立戦争中にワシントンの個人秘書を務めたウィリアム・リーがいる。彼は後にワシントン自身の遺志で解放された唯一の黒人奴隷となった。
 これら独立派黒人=黒人愛国者は、数の希少さや当時の人種差別的な社会常識のゆえに過小評価され、独立達成後は忘れられた存在となり、黒人の多くが英国側に付いたこともマイナスに働いて、かれらの寄与が奴隷制廃止への契機となることはなかった。
 一方、多くの黒人奴隷が参加した英国軍が勝利していれば反革命が成立し、アメリカの独立は阻止された一方で、奴隷制廃止は英国本国の政策により数十年早く達成されていた可能性があることは、アメリカ独立革命をめぐる歴史の皮肉と言える。

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近代科学の政治経済史(連載第24回)

2022-11-04 | 〆近代科学の政治経済史

五 電気工学の誕生と社会変革(続き)

独占電気資本の誕生
 19世紀後半期の電気工学の誕生と機を同じくして、電気関連の独占資本が誕生する。その代表的なものは当時新興の資本主義国として台頭していたアメリカに集中しており、20世紀以降のアメリカ資本主義の急成長の原動力ともなった。
 中でも代表的なものとして、発明王エジソンの起業に始まるゼネラル・エレクトリック社の設立がある。前回も見たとおり、これはエジソンが起業した電気照明会社をベースに、1889年にエジソン・ゼネラル・エレクトリック・カンパニーに拡大された後、1892年に別の発明家によって共同起業されたトムソン・ヒューストン・エレクトリックと合併する形で発足した。
 ゼネラル・エレクトリック株は、1896年に始まったダウ・ジョーンズ工業平均の最初の12の指標株の一つとなるほど、創立当初から当時アメリカ資本主義の主流だった鉄道資本と並ぶ大資本として注目される存在となった。
 ゼネラル・エレクトリックは独占企業体としての発展にも熱心で、1905年には持株会社エバスコ(EBASCO)を設立して、電力会社を系列化するとともに、電気工学的なコンサルティング業務など、電気関連の総合的な独占企業体となった。
 また海外発展にも熱心で、日本初の白熱電球製造会社として設立された東京電機の過半数株式を取得して大株主となったほか、後に東京電機と合併して東芝となる芝浦製作所の大株主にも納まるなど、アジアへの進出にも積極的で、世界に展開する多国籍資本としての本性を早くから発揮した。
 一方、エジソンのライバルの一人であった発明家ジョージ・ウェスティングハウスが1886年に設立したウェスティングハウス・エレクトリック社は、エジソンと争ったテスラから特許を取得しつつ、エジソンが敵視していた交流式送電システムで成功し、1891年には世界初の商用交流送電システムを開発した。
 このように送電システムで強みを発揮したウェスティングハウス・エレクトリックは1890年代から発電機の開発にも注力し、後には原子力発電炉の開発・製造で独占的な地位を築くなど、発電システム分野の独占企業体に成長していく。
 一方、ベルの電話会社を前身とするAT&Tはゼネラル・エレトリックより一足先の1885年に世界初の長距離電話会社として設立され、北米における電話関連の研究開発から関連機器製造、電話通信システムの管理運営まで一貫して同社が独占するシステム(ベルシステム)を構築した。
 ちなみにAT&Tの社業発展期の1901年から07年まで社長を務めたフレデリック・フィッシュはベルやエジソンも顧客とした特許専門弁護士の草分けで、彼が設立した法律事務所は知的財産権専門の多国籍法律事務所フィッシュ・アンド・リチャードソンとして現在も残る。

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近代科学の政治経済史(連載第23回)

2022-11-02 | 〆近代科学の政治経済史

五 電気工学の誕生と社会変革(続き)

電気工学の創始と電化社会の誕生①
 19世紀前半が電気に関する基礎物理学的研究の飛躍期だったとすれば、同世紀後半は応用分野としての電気工学の創始期であった。この時期における電気工学とその関連分野の成果は現在まで永続性を保つ画期的なものが多い。そうした19世紀前半と後半を取り結ぶ新技術は電信であった。以下、準備中。

電気工学の創始と電化社会の誕生②
 19世紀後半、電話機その他多くの電気関連発明を行ったアメリカのトーマス・エジソンは、この時代のチャンピオンである。エジソンもまた独学者であったが、彼は研究と発明のみならず、起業家としての才覚も持ち合わせた点で際立っている。
 エジソンは自身が設立した小さな実験室を基礎に電気照明会社を設立、それを拡大して今日の技術系多国籍資本の象徴ゼネラル・エレクトリックの前身となるエジソン・ゼネラル・エレクトリック・カンパニーを1889年に立ち上げている。
 もちろん、これはジョン・ピアポント(JP)・モーガンという銀行家による投資の支援があってのことであるが、会社設立の主要な元手は株価情報を電信で速達するストックティッカーの実用的改良品で得た収益にあったから、エジソンは研究とビジネスを結びつける技術系起業家の先駆けとも言える。
 しかし、電化社会の基盤となる電力供給網の発達にかけては、直流方式の送電システムを開発したエジソンとの確執・紛争で知られるニコラ・テスラが考案した交流方式の永続的な効果が大きい。テスラはオーストリアからのセルビア系移民の出自で、彼の成功は世界から優れた科学者を集めるアメリカ科学界の成功の先駆けでもあった。
 一方、電気通信の分野では、実用的な電話を発明したスコットランド生まれのアレクサンダー・グラハム・ベルの業績が際立っている。ベルもアメリカ(及びカナダ)へ移住した移民科学者であるとともに、自身のベル電話会社を前身とする情報通信系多国籍資本AT&Tの共同創業者となった。
 また、無線通信の分野では、ドイツが輩出したハインリヒ・ヘルツとフェルディナント・ブラウンの二人の物理学者・発明家が際立っている。国際周波数単位ヘルツに名を残すヘルツは極超短波の実用化に道を開き、和製英語ブラウン管に名を残すブラウンはまさに最初のブラウン管(陰極線管)を発明した。
 ヘルツとブラウンの発明はその没後、長年月を経て、テレビやコンピュータ、携帯電話などの現代電化技術に応用されたという点で、遅効性の画期的発明であったと言える。
 ここで名を挙げた人々は電気工学者ではなかったが、彼らが成果を上げた19世紀後半、時に末期には、1882年のダルムシュタット工科大学(ドイツ)を皮切りに、欧米の大学で電気工学科の設置が相次ぎ、電気工学が大学での研究・教育の科目として位置づけられるようになる。

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