ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第244回)

2021-06-07 | 〆近代革命の社会力学

三十六 キューバ社会主義革命

(1)概観
 南米ボリビアで「長い革命」が進行中の1950年代末、中米カリブ海域のキューバで、アメリカ地域全体の地政学的状況を大きく変える社会主義革命が勃発した。この革命は、その後の展開から、米ソ間の緊張を高め、核戦争の現実的危険をも惹起した。
 中米の楽園的島国キューバでこのような事象が生じたのは、キューバの置かれた特殊性によるところが大きい。キューバは19世紀末から20世紀初頭にかけて、革命としての性格も帯びた対スペイン独立戦争を戦ったものの、自力では勝利できず、当時新興の帝国主義国として台頭していたアメリカの覇権に乗せられる形で独立を果たした。
 しかし、この「独立」はまさに括弧付きのもので、以後、内外情勢に応じた若干の変遷はありながらも、二つの世界大戦を越えてアメリカの事実上の保護国として対米従属状況に置かれた。
 特に、1930年代から頭角を現し、40年代に大統領を務めた後、1952年にクーデターで政権に復帰したフルヘンシオ・バティスタはアメリカの忠実な代理人として奉仕した。
 その間、アメリカは1903年以来、租借するグアンタナモ基地を軍事拠点としつつ、国策会社ユナイテッド・フルーツ社を通じた砂糖やバナナなどの栽培プランテーションを通じた従属支配を強めていった。
 そうした中、1950年代、民族主義の傾向を強めた学生を含む中産階級青年のグループ(7月26日運動)が急進化し、バティスタ体制打倒の革命運動に乗り出していく。当初は冒険主義的な武装革命に出たが失敗し、政権の残酷な報復を受けた。
 しかし、運動は壊滅することなく、青年グループはより戦略的に洗練された武装革命を再起動し、1959年にこれを成功させた。これが通称「キューバ革命」であるが、通称にあって「社会主義」を冠しないのは、革命直後には社会主義的なイデオロギーが希薄で、反独裁と対米自立化を目指す民族主義革命と見えたからである。
 たしかに、革命後しばらくの間、革命政権は社会主義を明言せず、アメリカとの関係維持を模索していたが、指導部のフィデルとラウルのカストロ兄弟や兄弟の盟友として参加していたアルゼンチン出身のエルネスト(通称チェ)・ゲバラらはマルクス主義に傾倒しており、革命運動が全体として社会主義に傾斜していたことは間違いなかった。
 その点、アメリカは当初から懐疑的であり、革命政権との関係構築に消極的であることが判明すると、政権はアメリカ系外資の接収・国有化を急ぎ、社会主義的な政策を展開、1961年には社会主義宣言を発した。
 その進路はボリビアの革命とは異なり、ソ連への接近とソ連型共産党支配国家の構築という方向へ急進していったことから、対米関係も急速に悪化、アメリカによるキューバ侵攻・転覆作戦とその過程での米ソ対立が核戦争危機を招くこととなる。結果、このカリブ海の島国での革命が戦後史に残る国際的事変ともなった。
 それだけに、キューバ社会主義革命の余波は大きく、程度差はあれ、カリブ海域を含めた中南米全域に同種の革命運動を拡散することになるが、キューバと同種の革命が成功した国はこれまで出現しなかったという意味で、キューバ社会主義革命は特殊キューバ的事象だったとも言える。
 実際、キューバでは社会主義革命の効果は冷戦を越えて今日まで持続し、2016年の最高指導者フィデル・カストロの死去後も共産党支配体制は揺るがず、中国やベトナムとともに、ソ連の消滅後を生き延びた数少ない旧ソ連型体制の一つとなっているところである。

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比較:影の警察国家(連載第42回)

2021-06-05 | 〆比較:影の警察国家

Ⅲ フランス―中央集権型警察国家

1‐1‐2:パリ警視庁の特殊性

 パリ警視庁はフランス革命中の1800年に設置された独自の歴史を持つ首都警察機関であり、内務省が設置され、国家警察の中央集権化が図られても独自の地位を維持したが、集権国家を強化した第五共和政期の1966年の制度改正で国家警察の一翼に編入された。
 それにもかかわらず、パリ警視庁は国家警察本部(DGPN)の管理下には属さず、独自の管理機構を擁する内務省の外局的な地位を保持している。その点で、首都の治安維持という点では同様の役割を果たすロンドンの首都警察や東京の警視庁が基本的には地方警察であるのとは異なる構制である。
 パリ警視庁の伝統的な管轄区域はパリ市であるが、2009年からはパリ市の郊外域を形成する三つの県にも拡大されるなど、管轄区域を広げ、グランパリと呼ばれるパリ首都圏を包括する警察としての性格を強めている。
 パリ警視庁は上述の通り、独自の管理機構を備えており、DGPNと並行的に、司法警察や地域警察、警備・交通警察など機能別の指令部(Direction)が置かれている。
 DGPNと異なる点として、パリ警視庁には公安警察部局として、パリ警視庁諜報指令部(Direction du Renseignement de la préfecture de police de Paris:DR-PP)が置かれていることである。対して、DGPNの旧公安警察部局は、他機関との合併により、後に見る国内保安本部に再編されている。
 また、パリ警視庁は、パレスチナ武装組織がミュンヘン五輪選手村を襲撃し、イスラエルの選手多数を殺害した1972年のミュンヘン五輪テロ事件を契機に、独自の対テロ特殊部隊として、奇襲対応団(Brigade anticommando)を導入するなど、早くから武装化を進めてきた。
 今日では、前回見たように、DGPNの国家警察介入隊の下に、DGPNの対テロ特殊部隊RAIDとの統合運用が行われるなど、治安有事に際しての武装警察部隊の運用を通じたDGPNとの統合化が進んでいるところである。

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比較:影の警察国家(連載第41回)

2021-06-04 | 〆比較:影の警察国家

Ⅲ フランス―中央集権型警察国家

1‐1‐1:国家警察の二元構造

 フランスの二重的集権警察制度における一本目の柱となるのは都市域を管轄する文民警察としての国家警察であるが、複雑なことに、内務省が所管するこの国家警察そのものが二元構造を成している。
 すなわち、内務省内の警察管理部局である国家警察本部(Direction générale de la Police national:DGPN)と首都パリを管轄するパリ警視庁(Préfecture de Police de Paris)である。パリ警視庁は 内務省内にありながら、DGPNとは別立てで、独自の管理組織を持つ外局的な位置づけとなる。
 このように、パリを別格として、その他の都市域では原則としてDGPNの各内部部局がそれぞれ地域分局を擁するという縦割り型の極めて官僚的な組織構制を採ることを特徴とする。
 DGPNの内部部局は、刑事警察や地域警察、機動警察、国境警察などの機能別に中央指令部(Direction centrale)が設置される基本構制で多岐に分かれているが、特殊部門として対テロ作戦に従事する重武装の探索・支援・介入・抑止隊(Recherche, Assistance, Intervention, Dissuasion:RAID)も擁する。
 RAIDは21世紀の「テロとの戦い」テーゼが焦点となる以前の1985年に当時のミッテラン社会党政権下で新設されたものであり、文民警察の重武装化の先駆けを成す組織である。
 武装文民警察としてより歴史が古いのは1944年創設の共和国保安機動隊(Compagnie républicaine de sécurité:CRS)であるが、CRSの主要任務は暴動鎮圧や街頭デモの規制であり、しばしばその抑圧的な過剰警備行動が批判されてきた。
 これら内部部局/部隊がそれぞれ地域分局/分駐隊を擁して各地域に展開する構制は非効率にも思えるが、ある意味では、集権警察内部で集権性を緩和する機能別の限定的な分権化がなされているとも言えるところである。
 ところで、DGPNの縦割り構制には例外があり、南仏最大都市マルセイユを含むブーシュ‐デュ‐ローヌ県だけは、統合的なブーシュ‐デュ‐ローヌ警察本部(Préfecture de police des Bouches-du-Rhône)が設置されている。ただし、パリ警視庁とは根本的に異なり、独自の地位を持たず、あくまでもDGPN管轄下の地域分局の位置づけである。
 このブーシュ‐デュ‐ローヌ県警察本部が設置されたのは2012年と比較的新しいが、このようにマルセイユとその周辺域にのみ縦割りを廃した統合警察本部が置かれたのは、麻薬関連事犯の多発など、治安が芳しくないマルセイユとその周辺地域の警察的統制を強めるためとされている。
 現時点で、こうした統合的警察本部は一庁にとどまるが、警察業務の効率性を重視して、同様の統合化が今後なされる可能性はあり、そうなると、上述のとおり機能的に分権化された集権警察の集権性が高まり、影の警察国家を助長する可能性もあるだろう。
 また、近時はテロ等の治安有事に際しては、パリ警視庁の介入部隊とも併せて統合運用する国家警察介入隊(Force d'intervention de la Police nationale)の下に統合されてきており、国家警察の二元構造を緩和し、統一する動きも見られる。

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近代革命の社会力学(連載第243回)

2021-06-02 | 〆近代革命の社会力学

三十五 第二次ボリビア社会主義革命

(5)革命中/後期:1952年~56年~64年
 MNR政権は一党支配体制を志向せず、定期的な大統領選挙は維持したが、革命後最初の大統領選となった1956年は対抗候補が極右系だったこともあり、MNR共同創設者でもあるシレス・スアソ副大統領が80パーセント以上の得票をもって圧勝した。これ以降、第二次革命は中期を迎えるが、この時期には二つの点で大きな環境変化が見られた。
 一つは、経済の悪化である。鉱山公社の非効率な運営により経済基盤の鉱業生産が落ち込んだほか、農地改革の混乱で暮らしに関わる食糧生産の停滞するなど、社会主義政策の限界が早くも見え始め、インフレーションも亢進していた。
 もう一つは、対米関係の改善に伴うアメリカによる経済援助の開始である。このことは体制を安定させるうえで有利とも思えるが、かつてMNRを親ナチスと疑ったアメリカがMNR政権に接近してきた理由は、冷戦が深化する中、ラテンアメリカ地域での覇権を確立するためであった。
 ことに1959年のキューバ革命が反米・親ソというアメリカにとって最も好ましからざる方向に進むと、アメリカはMNR政権のように、ソ連と一線を画して独自の社会改革に取り組むラテンアメリカの体制を支援する方針を強めた。
 このことは援助を通じてアメリカへの従属を結果する危険を伴ったが、シレス・スアソはパス・エステンソロよりも妥協的であり、アメリカの援助を受け入れたのである。結果、国家予算の30パーセントをアメリカの援助が占めるまでになった。
 他方、シレス・スアソは政権への反発を強めるボリビア労働者中央本部(COB)の力を削ぐためにも、軍の再建を急いだ。ここでもアメリカによる軍事訓練を受け入れたことで軍部が急速に復活し、政権にも発言力を持つようになった。
 そうした中、1960年の大統領選挙にはパス・エステンソロが再び立候補して当選、第二期政権を開始する。革命後期を成す第二期パス・エステンソロ政権の課題は鉱業の立て直しにあったが、自力再生を断念した政権は、アメリカ、旧西ドイツ、米州開発銀行の三者共同の援助計画を導入した。
 これにより、労働者自主管理型の鉱山公社は整理され、労働者解雇や賃下げなどのリストラが断行されたため、COBは強く反発し、MNRとの関係は決定的に決裂した。こうして、最大支持基盤を失いながらも、パス・エステンソロは連続再選を可能とする改憲を施したうえ、軍部と農民の支援のもと、1964年の大統領選で再選を果たした。
 この時の論功行賞としてレネ・バリエントス・オルトゥーニョ空軍司令官を副大統領に抜擢した。バリエントス将軍は、52年革命当時、アルゼンチンに亡命中だったパス・エステンソロを航空機で帰還させた功績もあるMNR支持派の軍人のはずだった。
 しかし、おそらくは以前からクーデターを構想していたバリエントスはたちまちにして寝返り、64年11月、陸軍と組んでクーデターを主導し、パス・エステンソロ政権を転覆、以後、軍事政権を樹立して、MNR体制を解体したのである。
 バリエントス政権は、69年にバリエントスが航空機事故で急死するまで、親米反共の軍事独裁政権として、革命派を弾圧した。なお、キューバ革命から離脱してボリビアでの再革命を助長するべく、ボリビア入りしたチェ・ゲバラを捕らえ、略式処刑したのも、バリエントス政権下の対ゲリラ掃討作戦の一環であった。
 こうして、1952年に始まった「長い革命」は終幕し、以後のボリビアは80年代まで軍事クーデターが頻発する不安定な時代に突入する。しかし、MNRは生き延び、軍事政権が終焉した後、今度は社会主義を清算する新自由主義政党に変節し、再びシレス・スアソ(82年‐85年)とパス・エステンソロ(85年‐89年)が相次いで大統領に返り咲くのである。
 このように、革命政党が革命の挫折後も存続し、同じ党名かつ同じ顔触れで、今度は自己否定的な革命清算施策を展開するのは極めて異例であり、MNRという政党の変幻自在ぶりを象徴している。しかし、ボリビアにおける社会主義的な志向性は残り、変節したMNRは、21世紀に入って新たな社会主義運動の潮流の中、政権、議席ともに失うことになる。

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