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近代科学の政治経済史(連載第48回)

2023-02-22 | 〆近代科学の政治経済史

九 核兵器科学の誕生と隆盛(続き)

マンハッタン計画と死の科学
 ドイツと日本でも極秘の原爆開発計画が進められる中、連合国側も1942年からアメリカ、イギリスにカナダも加わった英語圏三国による共同開発計画に着手する。これが、いわゆるマンハッタン計画である。
 その契機となったのは先述のシラード‐アインシュタインのローズヴェルト米大統領宛て書簡だったと言われるが、この書簡自体は核分裂反応を応用した原子爆弾の製造可能性とナチスドイツによる先行開発の危険性を指摘したまでで、直接に原爆開発を促す内容ではなかった。
 ローズヴェルトも当初は積極的な関心を示さず、予備的な研究を指示したのみであったが、戦況が深まった1942年になって原爆開発計画を正式に承認したことで、具体的な開発計画が始動する。
 その拠点となったのは米陸軍であるが、ドイツや日本の計画とは異なり、科学者や研究機関、さらには技術系企業の総動員的な協力態勢が敷かれたことが計画を成功に導いた。中でも、科学者の中心人物は理論物理学者ロバート・オッペンハイマーであった。
 彼はマンハッタン計画のために新設された極秘の連邦研究機関ロスアラモス国立研究所の初代所長として、まさに計画の中心にあったため、アメリカにおける「原爆の父」と称される人物である。
 それ以外にも、計画にはドイツからの亡命者を含む多国籍の科学者のほか、シカゴ大学やカリフォルニア大学などの著名大学、さらにはゼネラル・エレクトリック、ウェスティングハウス・エレクトリックなど民間の技術系大手企業も参画した20億ドル近い資金を投入しての一大プロジェクトであった。
 こうして短期間で実戦使用可能な原子爆弾の製造に至ったマンハッタン計画とは、純粋に科学的な探求を離れ、効率的な大量殺戮を可能にする新型爆弾の開発にのみ特化した「死の科学」と呼ぶべき、科学の歴史においても異状な企てであった。
 このようなことが倫理的な検討も躊躇もなしに遂行された背景として当時の第二次世界大戦の戦況があったことは明らかであり、仮に第二次大戦なかりせば、おそらく原子爆弾は理論上の可能性にとどまっていたであろう。
 そうした「死の科学」への反省は戦後に現れ、中心人物であったオッペンハイマーはやがて反核の立場を鮮明にしたため、1950年代のアメリカ連邦議会の赤狩りキャンペーンで槍玉に上げられ、根拠のない対ソ連スパイ疑惑を理由に公職追放処分となった。
 一方、アインシュタインは計画には直接参加していなかったが、元来平和主義者であった彼は戦後、核廃絶運動に身を投じ、最晩年の1955年には哲学者・数学者のバートランド・ラッセルと共同で核廃絶や科学の平和利用を訴えるラッセル‐アインシュタイン宣言を発した。

原爆開発の成功と初の実戦使用
 計画の渦中からも、原子爆弾の実戦使用への科学者の異議がなかったわけではない。1945年3月には、ドイツの核開発が進展していないことが確証されたことを踏まえ、自身もマンハッタン計画に協力していたジェームス・フランクを中心とするシカゴ大学の科学者が原爆の無警告使用に反対する提言を行った(フランク報告)。
 しかし、これとて、主として戦後の厳重な核兵器管理体制の必要を指摘し、原爆の無警告使用に反対したまでで(有警告使用には反対しない)、大戦渦中という大状況ではマンハッタン計画の歯止めとはならなかった。
 当時の科学技術の英知を結集した計画は、1945年7月、原子爆弾の実証実験を成功させる。ニューメキシコ州で実施されたトリニティ実験と呼ばれるこの実験は、実験室での核分裂実験とは根本的に異なり、人類史上初めて核爆弾の起爆に成功したいわゆる核実験の先駆として、科学技術史上の画期となった。
 試されたのは爆縮型プルトニウム原子爆弾と呼ばれるもので、後に長崎に投下された「ファットマン」の直接的な原型となるものであった。爆縮は中性子爆弾が早発的に爆発して出力が減殺されることを防止するべく、プルトニウムの密度を高めて臨界に到達させる新たな技術であった。
 この核実験の成功は引き続き、実戦使用への道を開いた。ローズヴェルト急死を経て成立したトルーマン新政権は、フランク報告をも無視して原子爆弾の対日無警告使用を決断した。こうして実現したのが周知のとおり、1945年8月の広島、長崎への連続的原爆投下であった。
 トリニティ実験の翌月という短期での実戦使用から見て、これには実戦での使用ならぬ「試用」というそれ自体に実験的な狙いもあったと推測できる。そこには、おそらく新兵器の効果を早速に試したい軍部の戦略的な意向も働いていたことは想像に難くない。
 さらに、軍部内でも抵抗を続ける日本を降伏させるうえで原爆使用は無用との意見もあった中で原爆投下が強行されたのは、連合国内の信頼できない同盟国としてマンハッタン計画から外されていたソ連向けのデモンストレーションという政治的狙いもあったであろう。
 こうした軍事的・政治的判断はもはや科学の手の届かない領域であるが、「死の科学」に手を着けた時点で、科学はすでに一線を越えていたと言える。原爆の使用を許さないためには、たとえ世界大戦という特殊状況下にあっても、そもそもそうした科学理論の非人道的な応用を自らに禁ずる必要があったのである。


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