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世界歴史鳥瞰(連載第1回) 

2011-08-09 | 〆世界歴史鳥瞰

愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語る。
―ナポレオン・ボナパルト

 

序論

一 世界歴史の始点と終点

 本連載で世界歴史といった場合の「世界」とは、単に地球全域の各地という地理的概念にとどまらず、そうした地球という場における人類の社会的活動の総体を指している。
 そういう「世界」の始点から終点までの過程が世界歴史であるが、その始まりとは、要するに文明の始まりである。
 人類は文明を持つ以前から交易や農耕あるいは戦争といった社会的活動を営んでいたことは確かであるが、それらは歴史という形で叙述できるものではなく、単に考古学的事実として記述することができるにとどまる。
 もっとも、文明とは何かということについては論者の数だけ説があると言ってよいが、本連載における文明の把握については第1章で述べるとして、ともかく文明が始まらないことには歴史も始まらないのである。
 しかも、そのような文明という営為は人類の中でも最も新しい現生人類(ホモ・サピエンス)だけが始めたのであり、それ以前の古い人類は文明という営為を持たなかったのであるから、世界歴史とは必然的に現生人類の歴史を意味することになる。
 それでは、そうした世界歴史の終点とはいったいいつのことであろうか。言い換えれば現代史とはどこまでをいうかという問いである。
 これはかなりの難問であって定説と言えるものはない。ただ、慣用的には四半世紀=25年を歴史における最小単位として扱うことが多いから、これを基準とするならば現時点から遡っておおむね25年程度以前をもって歴史の終点とみなすことは不合理でないだろう。
 そうすると、歴史の終点以後現時点までの25年前後の過程は同時代ということになるが、その間も時の経過は進行している以上、これを「同時代史」として把握することは可能である。
 この「同時代史」は厳密に言えば歴史ではなく現代社会論の対象ではあるが、それは現代史の延長部分として歴史ともリンクしているものであるから、本連載では末尾の補章で同時代史に相当する部分にも言及する。 

二 鳥瞰的歴史観

 本連載は「世界歴史鳥瞰」と題しているように、世界歴史をまさに鳥のように俯瞰しようという一つの史観に基づいて叙述される。これを鳥瞰的歴史観(略して鳥瞰史観)と名づける。
 鳥瞰ということの意味は、特定の国や地域の歴史でなく世界の歴史を通覧的に把握すること、また個別的な事物・事象の歴史でなく人間の営為全般の歴史を総体として把握することである。
 このような歴史観は職業的歴史家の歴史観とは別のものである。なぜなら今日、専門分業化が進んだ職業的歴史家の歴史観とはすべて個別のものに関わる部分史観であるからである。部分史観とは縦割りまたは細切れの歴史観である。
 このうち縦割り史観の場合は、例えば日本史とかそのうちの大阪史等々のように、一国史/郷土史という形で発現する。これは最もオーソドックスな歴史叙述であると同時に、当然にもナショナリズムやプロヴィンシャリズム(郷土第一主義)と不可分に結びついた歴史叙述である。またそれは「木を見て森を見ない」史観でもある。
 しかも一国史/郷土史の内部が通常は時代区分ごとに古代史から現代史までさらに分節化されているから、先のたとえに従えば木の中でも古木だけを見たり、新木だけを見たりするという具合になる。
 一方、細切れ史観の場合は祭祀とか服飾、さらには心性といった細密な事物・事象の歴史を探求する社会史という形で発現する。これは「木も見ず枝葉を見る」史観であるが、近年縦割りの一国史/郷土史に代わって学術としての歴史の中では主流化しつつある。
 これらの部分史観はもちろん無価値なのではなく、それによって新たな歴史的発見がなされることも少なくないのであるから、むしろ大いに推進されるべきものなのである。
 これに対して、鳥瞰史観は部分史観の力も借りながら「森を見渡す」史観であって部分史観と対立するものではない。ただ、それは学校の世界史教科書のように世界各地の歴史を総花的・羅列的に紹介するだけの「教科書史観」ではなく、ある一定の歴史哲学に基づく歴史観である。従って、本連載も教科書や受験参考書代わりに利用することは全然推奨できないのである。


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