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貨幣経済史黒書(連載第16回)

2018-10-07 | 〆貨幣経済史黒書

File15:1857年米欧恐慌

 アメリカでは、1837年恐慌後の長期デフレ不況が1844年まで続いた後、1850年代は西部開拓の進展とともに好況に転じていた。しかし、「恐慌は忘れた頃に再発する」の法則どおり、前回恐慌からちょうど20年後の1857年に恐慌が再発した。
 直接の発端となったのが、オハイオ生命保険信託会社(以下、オハイオ生命と略す)という一金融機関の経営破綻であった点、およそ150年後のリーマン・ブラザーズ―奇しくも、当時はまだ雑貨商であった同社の創業も1850年代―の破綻を契機としたリーマン・ショックを先取りするような現代的な金融恐慌の初期の例でもあった。
 オハイオ生命はその名のとおり、オハイオ州を拠点とする保険及び信託会社であったが、そのニューヨーク支店を舞台に経営幹部による詐欺行為が発覚して閉鎖に追い込まれたのである。その情報が当時新興の通信技術であった電報により短時間で拡散し、投資家らのパニックを呼び起こしたという点で、情報の拡散が恐慌を助長した初例でもあった。
 オハイオ・ショックとは別に、鉄道バブルの崩壊という現象も重なった。1850年代のアメリカは西部開拓に合わせた鉄道敷設ブームが起きており、多くの銀行が鉄道に貸付出資をこぞって行なっていた。しかし、このような一点集中的投資ブームは常にバブルの危険を内包している。
 折りしも、クリミア戦争の終結により、戦時中アメリカからの農産品の輸入に依存していた欧州の農業生産力が回復し、アメリカ農産品の輸出鈍化、価格下落をきたしたことが、開拓途上の西部に不況をもたらしていた。
 地価の下落も続いた西部の不況は、鉄道会社の経営難と鉄道株の下落を呼んだ。経営基盤の弱い地域的な鉄道会社が林立するアメリカの鉄道業界の構造から、鉄道会社の連鎖倒産が相次いだ。銀行の取り付け騒ぎなど、後はお定まりのパニックである。
 当時のブキャナン政権はインフレ抑制のため、紙幣流通量を削減する策に出て、20ドル以下紙幣の使用を禁止したが、損失を蒙った個人の救済に関しては「救済しない改革」という標語で、アメリカ的な放置政策を選択したため、多くの個人が失業・破産に追い込まれた。
 1857年恐慌はその発端となったニューヨークをはじめとする北部で影響が大きく、南部にはさほど波及しないという形で、当時政治的にも奴隷制の存廃をめぐって対立し、戦争へ向かいつつあった南北の分断を促進するような間接的効果も伴っていた。
 同時に、この恐慌が特徴的なのは、しばしば「史上初の世界恐慌」ともみなされるように、アメリカの金融破綻・株価下落に始まって、海を越えイギリスやドイツ、フランスにも波及していったことである。
 とはいえ、少数の先発資本主義諸国が世界工業生産の五分の四を占めていた時代のこと、これを「世界恐慌」と呼ぶには「世界」はまだ一体化されておらず、正確には「米欧恐慌」と呼ぶのがふさわしいだろう。
 しかし、この先20世紀へ向けて資本主義のグローバル化が進展するのに伴い、真の世界恐慌への助走となったのが1857年恐慌であったと言える。その意味で、1857年米欧恐慌は、その後の恐慌の性質を転じるエポックとなる恐慌であった。


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