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貨幣経済史黒書(連載第15回)

2018-09-25 | 〆貨幣経済史黒書

File14:アメリカ1837年恐慌

 恐慌現象は短期間で頻発するということはないが、忘れた頃に再発する。アメリカ1819年恐慌の影響は1821年頃まで続いた後、収束したが、それからおよそ20年の歳月を経て、再び恐慌に見舞われる。1837年恐慌である。
 アメリカ経済は1830年代半ばに大きく成長していた。その間、土地や綿花、さらには依然残されていた奴隷の価格が上昇するインフレーションを来たした。これには18世紀後半に設立されたイギリスの新興財閥系ベアリング銀行からの積極的なアメリカ投資、特に信用貸しが大きな金融的支えとなっていた。
 1836年にはイギリスでも対米輸出の拡大から、再び周期的な過剰生産恐慌が発生しかけていた。そうした中、イングランド銀行が金利の引き上げを実施する。これは銀行の保有残高の減少に対応する貸し渋り政策であったが、恐慌を助長する効果を伴った。
 この当時の国際基軸通貨スターリング・ポンドを操作するイギリスによる不適切な金利引き上げ策は、依然としてイギリス経済に依存していたアメリカに直接の影響を及ぼした。ニューヨークの市中銀行による連動的な金利引き上げは、アメリカにおける恐慌再発の引き金を引く。同時に、アメリカの主要産品だった南部の綿花価格が急落した。こうしたことが、新たな恐慌を用意したのである。
 これに対して、先の1819年恐慌に学んでいなかったアメリカでは、恐慌への備えが不充分であった。そのうえ、恐慌勃発年の1837年はジャクソン大統領の二期目満了年に当たっており、このような政権移行期というタイミングも不運ではあった。
 恐慌直前まで8年続いたジャクソン政権は反中央集権主義のイデオロギーが強く、経済危機において金融対策の柱となる中央銀行にも否定的であり、第二次合衆国銀行の免許延長を阻止していた。このような金融的司令塔を欠く政策は、市中銀行の放漫融資を助長していた。
 またジャクソン政権は古典的な正貨主義を採用し、インフレ抑制策として1836年に正貨流通令を発していたため、政府の公有地取引は金貨または銀貨のみで行なわれるようになった。結果として、正金の流出現象が起き、銀行は預金残高の減少に直面し、貸し渋りを招く。
 ジャクソン大統領を継いだヴァン・ビューレン大統領も恐慌対策を十分に採ることはなかった。恐慌は彼の就任直後に始まり、その年のうちに全米に広がる。預金者による預金引き出しが殺到し、市中銀行の半数近くが閉鎖に追い込まれた。
 経済介入に否定的なアメリカ政府の無策もあり、1837年恐慌の余波は長く続き、1830年代末に恐慌が収束した後も、デフレーションを伴う不況が1844年まで続き、この間、企業の倒産、失業が増大した。
 恐慌とはパニックであるが、根拠の不確かな流言が飛び交う一般市民社会にも拡散される広汎な心理的パニック現象としての恐慌は、アメリカにおいても、また世界においても1837年恐慌が最初のものだったかもしれない。


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