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戦後日本史(連載第3回)

2013-05-21 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

序章 占領=革命:1945‐49

〔二〕占領=革命の理念〈1〉

 連合国の占領政策が革命的な内容を持つことが明らかになってきたのは、1945年10月に連合国軍最高司令官マッカーサーによって発せられたいわゆる「五大改革指令」においてであった。
 その内容は(1)婦人の解放、(2)労働組合の助長、(3)教育の自由主義化、(4)圧制的諸制度の撤廃、(5)経済の民主化の五点であるが、中心を成すのは「経済の民主化」である。
 具体的には「所得並びに生産及商工業の諸手段の所有の普遍的分配を齎す[もたらす]が如き方法の発達に依り,独占的産業支配が改善せらるるやう日本の経済機構を民主主義化する」とされたが、これはいわゆる社会民主主義を示唆する命題である。つまりは、資本主義的経済構造は本質的にこれを温存しつつ、独占・寡占資本には一定のメスを入れるとともに、二番目の標語にあるように、労働基本権の保障を通じ、それまで粗野なままであった労使関係を改革して労働者の地位の向上と生活改善を図るというものである。
 こうした社民主義のテーゼが連合国、なかんずく米国から提示されたのは、当時の米国がニューディール政策(以下、ND政策という)を導入した民主党のローズベルト政権を継承するトルーマン政権の下にあったことと無関係ではない。
 ND政策は西欧生まれの社民主義の米国的な文脈における再解釈とも言うべきものであって、当時の米支配層は日本民主化を企画するに当たって、このND路線の適用を念頭に置いていたのである。
 さしあたり占領当局が優先課題としたのは、農地改革と財閥解体であった。このうち前者の農地改革は全般に不徹底に終わる占領=革命の諸政策の中では比較的徹底しており、その効果が永続したプログラムであった。
 その内容はもちろん農地国有化ではなく、大地主所有に係る農地の小作農への分配と小規模自作農の育成という典型的にブルジョワ的な、しかし大多数の農民の要望に合致するものであった。これにより戦前期日本農業の特徴であった寄生地主制は解体され、農民のプチブル中産階級化が実現し、かれらはやがてブルジョワ保守支配の最も基盤的な支持層となっていくのである。
 二番目の財閥解体は反対に、占領=革命の不徹底さの象徴であった。占領当局は持株会社の禁止を軸とした独占禁止政策を主導し、戦前の主要15財閥の解体を図るが、財閥の中核を成す大銀行は温存したため、大銀行を核とする「企業系列」の形態を経て、半世紀後の「金融ビッグバン」に際し、大銀行を中心とした財閥の再興につながっていく。
 一方、労働基本権の保障、特に労働組合活動の自由化はこの時期の大きな施策である、その効果は今日まで持続しているものの、占領当局は当然ながら労組に基盤を置いていたわけではなく、あくまでも「経済の民主化」と関連付けられた政策プログラムの一環としての労働組合の育成策を主導したにすぎなかった。
 とはいえ、労働基本権は新憲法にも明文を持って書き込まれ、当時のブルジョワ憲法としては最も充実した社会権条項を持つ新憲法は、起草過程で大いに参照されたアメリカ合衆国憲法とも異なる社会民主主義色の濃厚なブルジョワ・リベラル憲法に仕上がっていった。
 そうした憲法に基づく新体制は、戦前ドイツのワイマール体制に類似しており、新憲法体制は―共和制ではなかったものの―日本版ワイマール体制と呼んでもよさそうな実質を有していた。
 従って、そこにはドイツのワイマール体制と同様の限界が認められた。すなわち所詮それは下部構造の部分的手直しと上部構造の改革にとどまるブルジョワ革命の域を出ないものであった。ただ、ワイマール体制とも異なり、占領=革命ではもう一つ、カント的な恒久平和論が反映された交戦権放棄と軍備廃止というラディカルな変革が目指されたことは特筆に値する。
 こうして、戦後の占領は言葉の厳密な意味での「革命」ではなかったけれども、内容上は外国の介入による「横からの革命」と言うべき変革を画したのである。


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