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不具者の世界歴史(連載第4回)

2017-03-06 | 〆不具者の世界歴史

Ⅰ 神秘化の時代

荘子の不具者観
 前回は神話の中の障碍者像を見たが、神話と思想の境界で独特の不具者観を示しているのが、中国古典『荘子』である。この書では、筆者とされる荘子の原典に最も近いと言われる「内篇」に収められた「徳充符篇」の中で不具者を話の中心に据えた逸話風の論が集中的に展開されている。
 ちなみに「徳充符篇」の一つ前の「人間世篇」でも、第七段で「支離疏(しりそ)」なる障碍者の逸話が見える。「支離疏」は人名というよりは、「身体的に支離滅裂な人」という趣意で、意訳すれば重複障碍者のことかと思われる。
 そのいささか比喩的に誇張された身体描写によると、彼は「顎がへその辺に隠れ、両肩は頭頂部より高く、頭髪のもとどりは天をさし、内臓は頭の上にきて、両腿は脇腹に当たっている」というまさに重度の身体障碍者である。
 「支離疏」は軍務や土木の徴発を免除され、病人への穀物や薪の施しも受けているが、自身は裁縫で生計を立て、米のふるいわけもこなして十人を養えるという今日的に言えば自立した障碍者である。逸話は、こうして身体的に不完全な者でも世間の害を受けず、身を養って天寿を全うできるのだから、その心の徳が不完全な者はなおさらのことだと結ぶ。
 この逸話を含む「人間世篇」はより世俗的な処世の秘訣を論じる節であるので、こうした自立した身体障碍者像を引き合いに出しつつ、健常的だが心の徳のない者でも安泰に生きていけるのだという励ましである。
 これに続く「徳充符篇」では、一歩進んで障碍者ながら有徳者の理想像がいくつも紹介されている。その典型例は、「徳充符篇」第五段に見える「闉跂支離無脤(いんきしりむしん)」と「甕盎大癭(おうおうたいえ)」の逸話である。「闉跂支離無脤」は背と足の曲がった三つ口の人、「甕盎大癭」とはごつい瘤だらけの人という趣意で、人名というより、前者は口蓋裂と身体障碍の合併者、後者はおそらく顔面腫瘍の障碍者像を示したものと思われる。
 荘子によると、前者は衛の霊公に、後者は斉の桓公に道(老荘哲学における「道(タオ)」)を説いたところ、両公はすっかり気に入り、それからは五体満足の普通の人を見ると、首が細く、弱弱しく見えるようになったという。その理由として、両障碍者は内面の徳がすぐれているため、外見の変異などは忘れられてしまうのだといい、世人は忘れてよい外見を忘れず、忘れてならない内面を忘れているが、これを真の物忘れというとして、世人の外見優位の価値観を痛烈に批判している。
 この逸話を含む「徳充符篇」とはまさに内面の徳が充実している人間のあり方を説く節であり、そうした人間の理想像として外見上は醜いと差別されがちな障碍を持つ有徳者の姿を逸話の形で紹介、説示しているのである。
 同様の趣旨から、「徳充符篇」では刑罰としての体刑によって身体障碍者となった者(兀者)の逸話が複数紹介されている。いずれも荘子最大の論敵である孔子を越えるような有徳者として描かれているが、第一段で紹介される王駘はその典型例であり、彼は「仮象でない真実を見究め、現象的事物に動かされることなく、事物の転変を自然の運命とわきまえ、現象の根本にわが身を置いている」超越者―老荘思想における理想者―として描写されている。
 さらに第四段では、「世界中をびっくりさせるほど」の醜男だという衛の人・哀駘它(あいたいだ)の逸話が見える。彼はそれほどに容姿醜悪でありながら、いっしょに住み込んだ男たちは彼を慕って離れようとしないし、一般には醜男に見向きしないであろう女たちですら、「他人の妻になるより、彼の妾になりたい」と父母にねだるというほどの人気者だという。
 また哀駘它はぼんやりして自己主張せず、他人に同調するだけなのに人望厚く、魯の哀公は彼を宰相に起用しようとまでしたが、彼は固辞して去っていった。こうした哀駘它の人物像として、逸話は孔子の口を借りるという筆法で、心の徳が外に現れない平衡感覚の体得者として説明している。
 このように、荘子はしばしば障碍者や容姿醜形者を有徳者として、ほとんど神秘化に近いほど理想化させた短い逸話を通じて論を展開することを好んだが、ここには外見より内面の徳に優位性を置く内面性の哲学・倫理学としての荘子思想の特色が認められる。
 しかし、これは同時代の古代中国にあっても必ずしも世間常識とは合致していなかったからこそ、荘子はとりわけ外面に儀礼的に表出される礼節の徳を強調する儒学―その視界に不具者はとらえられていない―に対抗する批判哲学として自論を展開しようとしたものと思われるのである。
 ちなみに、荘子思想をもその源流の一つとするとされる道教に傾倒していたと言われる日本の飛鳥時代の女帝・斉明天皇には建皇子〔たけるのみこ〕という言語障碍児の孫がいた。天皇は皇子の心が美しいことから溺愛し、彼が8歳で没した時は悲しみが深く、激しく慟哭したといい、皇子を偲ぶ歌も残している。
 公式史書『日本書紀』に記録されたこのエピソードも、荘子思想との直接的な関連性はともかくとして、幼い障碍児と女帝の心の交流を題材とした内面性の哲学・倫理学の表出例として読み解くことができるかもしれない。


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