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近代科学の政治経済史(連載第44回)

2023-02-06 | 〆近代科学の政治経済史

八 科学と政治の一体化:ソヴィエト科学(続き)

軍事科学への傾斜
 ソヴィエト科学において国策として最も偏重されたのは、軍事科学であった。軍事科学はスターリン時代以来、西側とりわけアメリカに追いつき、追い越すことをひらすらに追求する富国強兵的な国策の中で、軍事力の強化を支える科学的基盤であった。
 そうしたソヴィエト軍事科学の本格的な始動は、第二次大戦中/後の核兵器、特に原子爆弾の開発からである。知られているように、原爆開発は戦前からナチスドイツや軍国日本でも着手されていたが、いち早く実用化し、実戦使用したのはアメリカであった。
 これに対して、ソ連の原爆開発も第二次大戦中に始まるとはいえ、当時のソヴィエト科学の水準では対処できず完全に出遅れていたところ、アメリカが主導した原爆開発計画(マンハッタン計画)のインサイダーから漏洩された情報をもとに、核物理学者イーゴリ・クルチャトフが主導して開発を進め、1949年の核実験の成功を導いた。
 こうしたソヴィエト原爆計画の総指揮を執っていたのはスターリンの腹心で、秘密警察長官として恐怖政治の中心にあったラヴレンチー・ベリヤであった。ベリヤは彼らしいやり方で、複数の科学者チームに秘密の同一任務を割り当て、スパイの監視のもとに競合させる手法で開発計画をスピードアップさせた。
 1949年核実験に成功した勢いでソ連は水素爆弾の開発に進み、1953年にはアメリカに先駆けて世界初の実戦用水爆実験に成功する。水爆開発ではクルチャトフの下で原爆開発に従事していた若手の物理学者アンドレイ・サハロフが寄与し、「水爆の父」の異名を得た。
 こうして核物理学を基盤とする軍事科学はソヴィエト科学の最先端となったが、続いて、ソ連は宇宙開発に乗り出していく。嚆矢は世界初となる無人人工衛星の開発・打ち上げ計画であるスプートニク計画であった。
 その最初の成果であるスプートニク1号は、1957年10月に打ち上げに成功した。このことはアメリカにショックを与え、文化面にも及ぶ「スプートニクショック」なる社会現象を惹起したが、対抗上アメリカも宇宙開発に注力し、以後、世界はいわゆる宇宙開発競争の時代に入っていく。
 そうした中、ソ連は宇宙船ボストーク1号を開発し、1961年4月に宇宙飛行士ユーリー・ガガーリンを擁して人類史上初の有人大気圏外宇宙飛行を成功させた。これもアメリカに先行し、スプートニクに次ぐショックを与えることになった。
 こうした相次ぐ画期的成功により、宇宙科学はソヴィエト科学の最先端分野となるが、ソヴィエト宇宙科学は軍事目的に奉仕する軍事科学の一環でもあり、総じてソ連における軍事科学の優位性が確立されていく。
 しかし、1960年代後半以降、ソ連はいわゆる停滞の時代に入り、アメリカが人類史上初の月面着陸を成功させた1969年以降は宇宙科学分野でもアメリカの優位性が高まり、ソ連は次第に閉塞していく。
 こうした閉塞状況は情報科学分野での停滞と軌を一にしており、進取の気性が見られたフルシチョフが失権し、現状維持的なブレジネフ政権が長期化する中で、共産党指導部が科学的な技術革新に関心を失ったことが大きい。
 とはいえ、ソヴィエト軍事科学はソ連邦解体まで相当な高水準を維持し、冷戦時代の軍拡競争をアメリカとともに先導したことは確かであり、中でも次章で扱う核兵器、広くは大量破壊兵器の開発と科学を結びつける役割を果たしたのである。

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