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近代科学の政治経済史(連載第4回)

2022-02-11 | 〆近代科学の政治経済史

一 近代科学と政教の相克Ⅰ(続き)

ガリレオ裁判の展開①
 通説によると、ガリレオは二度にわたり裁判にかけられたとされる。一度目は1616年のことであるが、最初にガリレオに対する教会教義の観点からの糾弾に動いたのはドミニコ会修道士らであった。
 しかし、そうした科学の素人からの教義的な非難よりも、カトリック司祭で教会法律家でもあったフランチェスコ・インゴーリから学問的な論争を挑まれたことのほうが重要な伏線となったようである。
 インゴーリは保守的な論客であったが、天動説を護持していたわけではなく、天文学もかじった知識人として、むしろ太陽と月が地球を周回し、同時に惑星が太陽を周回すると主張するデンマークの天文学者ティコ・ブラ―エの天動‐地動折衷説の支持者として、ガリレオを批判したのであった。
 この論争は本来科学的なものであるはずであるが、インゴーリは地動説批判を純粋に科学的な観点からではなく、神学的な観点からも整理し、地動説の反聖書的な性格を非難しており、教皇庁としても看過できなくなったと見られる。
 ただ、1616年に始まった審問は本格的なものではなく、裁判官ベラルミーノ枢機卿は、ガリレオが地動説の所論を放棄し、今後一切論じないことを条件に審問手続きを打ち切ることを持ちかけた。これは今日で言えば、司法取引に基づく不起訴処分のようなものであった。
 そのうえで、教皇庁は地動説の流布を禁ずる布告を発し、その典拠であるコペルニクスの『天球の回転について』を閲覧禁止とした。しかし、禁書として確定させたわけではなく、間もなく、地動説は天体観測をより容易かつ正確にする手段にすぎないと解釈する限りでは教会教理に服するものでないとして、閲覧禁止措置を解除したのであった。
 こうしたガリレオへの寛大な処分と地動説に対する第三者的な態度を見る限り、この時点でも、教皇庁は天体の動きに関する論争にはまだ積極的な関心を抱いておらず、科学論争に直接介入する意思もなかったと理解される。
 これにて落着していれば何も問題はなかったはずであるが、それから十数年後、ガリレオは再び告発され、今度こそ本格的な異端審問にかけられる羽目となる。そのきっかけは、ガリレオが長い沈黙を破り、1632年に公刊した『天文対話』であった。
 この著書は地動説を直接に展開するのでなく、タイトルの通り、仮想の人物の対話という形式を取って、地動説と天動説、さらに折衷説に近い中立説を対比させた解説書のようなものであり、地動説の講説を禁じられた先の免責条件に沿いつつ、かつ教皇庁の出版許可も得たうえでの公刊であった。
 そのように用意周到に準備したはずのガリレオが何故に再び告発されたのか。そこには、ガリレオの科学者としての信念と、当時の対抗宗教改革時代のローマにおける宗教政治とのまさしく相克が関わっていた。

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