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近代革命の社会力学(連載第241回)

2021-05-28 | 〆近代革命の社会力学

三十五 第二次ボリビア社会主義革命

(3)選挙結果回復闘争から革命的蜂起へ
 1946年のビジャロエル政権の悲惨な失墜から1951年の大統領選挙までの大戦直後の時期は保守勢力が息を吹き返した時期であり、パス・エステンソロらMNRの幹部も多くは海外亡命を強いられていた。しかし、この間、保守政権も安定せず、5年間で4人の大統領が入れ替わった。
 保守勢力は戦間期の第一次革命以来の社会主義運動を阻止し、二次的な革命を防圧することに努めたが、長期政権が生まれず、かつ戦後の不況対策にも失敗する中、かえって社会不安が高まっていた。
 労働運動は急進化し、ボリビアの鉱山労働者組合は、1946年10月、トロツキーの思想に影響され、永続革命や武力闘争を謳った「プラカヨ・テーゼ」を発し、支配層との対決姿勢を鮮明にした。これに対し、政府は労働運動への抑圧を強め、再びカタビ錫鉱山での労働者蜂起が弾圧された。
 この間、MNRは急進的な労働運動とは一線を画しつつ、労働者階級や先住民層の間で着実に支持基盤を拡大し、最も強力な野党勢力となっていった。そうした状況下、自信を得たMNRは1949年に一部将校と組んでクーデターを企てたが、この早まった決起は失敗に終わった。
 その後、MNRは合法的な方法による政権獲得路線に転じ、1951年の大統領選挙では、当時アルゼンチンに亡命中だったパス・エステンソロが立候補、共同創設者シレス・スアソも副大統領候補にそろって立候補した。
 この選挙は普通選挙制導入前の制限選挙ながら、パス・エステンソロが45パーセント余りの得票率で勝利した。しかし、この結果に衝撃を受けた時の退任予定大統領ウリオラゴイティアは選挙結果を覆すべく、軍部に介入を求め、軍事政権を樹立させた。
 この策動は簡単に成功したが、持続するものではなかった。経済的には保守政権下でインフレ―ションが亢進しており、頼みの錫産業も戦後の国際価格の下落により打撃を受けていた。臨時の軍事政権には、そうした経済問題に対処する能力はなかった。
 一方、明らかに不法な選挙結果の転覆は、幅広い国民階層の間で強い反発を招いた。首都ラパスでは失業者のデモ行動が広がり、軍部も動揺し、一枚岩ではなくなる中、MNRは1952年初頭から選挙結果回復闘争に乗り出す。
 この動きには軍事政権の批判的な内部者や軍と一線を画す国家警察も助力し、同年4月にはラパスで武装蜂起に成功する。これ以降、MNRは武器庫を襲撃し、押収した武器を市民に分配して決起を促す典型的な武装革命モードに入った。
 この時点で、政府軍はすでに士気を喪失して事実上の動員解除状態となっており、3日間の戦闘の後、政府軍が降伏、4月16日には選挙結果どおり、パス・エステンソロに大統領権限が委譲された。こうして、革命は成功した。
 このように、合法的な選挙結果の転覆という政権の不法な介入が革命を招いた先例としては、ほぼ同時代1948年の中米コスタリカにおける革命があるが、コスタリカ革命が常備軍廃止という点を除けば、比較的穏健な社会改革に急速収斂したのに対し、1952年ボリビア革命はより急進的かつ長期的な社会変革に振れていくことになる。

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