ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第233回)

2021-05-07 | 〆近代革命の社会力学

三十三 アルジェリア独立革命

(7)二次革命と社会主義体制の確立
 権力闘争を乗り超え、着々と権力を固めていくかに見えた初代大統領ベンベラは、1965年6月の政変で突如政権を追われることになった。政変の主導者は、ベンベラ政権の副大統領兼国防相でもあったフアリ・ブーメディエンであった。
 ブーメディエンは士官学校卒の職業軍人ではないが、若くしてFLNに身を投じ、20代にしてFLN軍事部門である民族解放軍の参謀長となったたたき上げのレジスタンス戦士であった。
 政治的な面では目立たない存在ではあったが、8年に及ぶ独立戦争の過程で、軍事部門のリーダーとして、隠然たる勢力をすでに築いており、ベンベラとしても無視できない存在であった。
 ベンベラは、独立後、民族解放軍を母体に編成された正規軍の長(大佐)にブーメディエンをそのまま据え、国防相として政権にも参加させたほか、副大統領の地位も与えて体制保証を図ったつもりであったが、そのような優遇によりかえって裏切られる結果となった。
 FLNは独立戦争中のスムマム会議以来、政治優位の原則を持っており、これがある種の文民統制の担保であったが、軍事部門から出たブーメディエンが主導した65年政変は実質的に見れば軍事クーデターであり、ここへ来て、政治優位原則が破られた形となった。
 しかし、ブーメディエンによれば、65年政変はクーデターならず、「革命の回復」であり、実際、政変後、ブーメディエンを議長とする革命評議会が設置され、改めて体制の社会主義的な再構築が行われた。
 なぜ、ブーメディエンがこのような挙に出たかについては定かでないが、ベンベラの農村共同体や労働者自主管理など理想主義的な理念への疑念、さらには現実主義者として知られたブーテフリカ外相(後の大統領)の解任といった人事への不満が背景にあったと見られる。
 そのため、言わば、独立革命に続く二次革命が、ブーメディエンを中心とする軍部を中心に実行されたと言える。実際、65年政変以降、ベンベラの社会経済政策は転換され、ブーメディエンが道半ばで病死する1970年代後半にかけて、石油の国有化をはじめとする国家主導の計画的社会主義が追求された
 このプロセスは、先行のエジプト革命で、初代のナギーブ大統領が短期間でナーセルに追放され、体制が再構築された過程にも似ているが、ここでは実質的な最高実力者であったナーセルが満を持して登場したのに対し、アルジェリアでは影の立役者が表舞台に登場しつつ、路線変更を実行した形である。
 ブーメディエンによって敷かれた新路線はソ連モデルの社会主義であったが、イデオロギー上はマルクス‐レーニン主義を採用することなく、経済開発に重点を置いたプラグマティックなソ連モデルの採用であり、この施策は少なくとも70年代までは成功を収めた。
 もっとも、政治的な面では、65年政変はFLNの一党支配体制を変更することなく、むしろこれを強化し、FLNはブーメディエンの没後も一党支配体制を固守したため、アルジェリアにおける民主化は繰り延べされた。
 しかし、長期独裁支配に対する反発が1988年の民衆騒乱と90年地方選挙におけるイスラーム主義政党の躍進を招き、後者を強く警戒した軍部による事実上のクーデターと、それに引き続く長い内戦を惹起し、FLNの一党支配体制はいったんリセットされることになる。
 こうしたブーメディエン大統領の死去(1978年)後の展開は本節で取り上げた独立革命の範疇を外れるので、後にアルジェリアにも波及することになるアラブ連続民衆革命(アラブの春)に関連付けて取り上げることにする。

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近代革命の社会力学(連載第232回)

2021-05-07 | 〆近代革命の社会力学

三十三 アルジェリア独立革命

(6)独立と初期政権
 エビアン合意から二つの国民・住民投票を経て、アルジェリアは1962年7月に独立を果たした。独立後の政権勢力は民族解放戦線(FLN)であった。
 この流れは第二次大戦時のレジスタンス組織がそのまま解放後に政権勢力に平行移動した諸国のレジスタンス革命と類似しており、アルジェリア独立革命もある種のレジスタンス革命であったと言える。
 ただし、多くのレジスタンス革命では、共産系のレジスタンス組織が革命後、改めて共産党または他名称共産党に再編されて政権勢力となった例が多いが、アルジェリアではFLNがそのまま政党化され、今日まで最大政党として存続しているという点で、まさにレジスタンスの記憶が維持されていることに特徴がある。
 その点、FLNは元来、イデオロギーよりも、まさに名称どおり民族解放(独立)の一点で凝集された包括的組織であり、内部には共産主義から穏健なイスラーム主義まで様々な要素があったが、そのすべてが急進化することなく、FLNの旗の下に対立が止揚されていたことも特筆に値する。
 一方、アルジェリアにおいても、多くのレジスタンス革命においてありがちなように、革命後、「裏切者」に対する報復的処断が大々的になされた。
 ここでは特に、戦争中フランス軍に協力した同胞アルジェリア人(アルキ)に対する報復的な大量処刑が殺戮のレベルで断行された。独立戦争は8年近くにも及び、FLNも多大の犠牲を払っただけに、「裏切者」アルキへの集団的憎悪は激しかったのである。
 ちなみに、独立革命前の旧支配階級コロン層は、独立後の報復を恐れ、戦争中からフランスへ続々と引き揚げていたところ、アルキに対してはフランス政府が本国移住を禁じたため、独立後、FLNの報復にさらされる結果となった。
 こうした報復の屍の上に、政党化されたFLNの一党支配体制が樹立される。とはいえ、FLNにはユーゴスラヴィア・パルチザンの指導者チトーのような傑出したリーダーがおらず、政権勢力となったFLNでは早くも権力闘争が勃発した。
 最初の対立は、獄中にあって有力者として台頭していたベンベラと戦争中、FLNの事実上の海外代表機関であった亡命臨時政府を率いていたベンユセフ・ベンヘッダとの間で生じた。この対立はベンベラの勝利に終わり、彼は憲法制定後、1963年9月に初代大統領に選出された。
 ベンベラは非同盟諸国運動に積極的に関わり、第三世界の旗手の一人として国際舞台にもデビューしたが、内政面では、労働者自主管理などユーゴスラヴィアの影響を受けたと思われる経済政策が低開発段階のアルジェリアでは十分機能していなかった。
 一方、FLNを離脱したホサイン・アイト・アーメドは、社会主義勢力戦線(FFS)を結成して反政府活動を開始した。実際のところ、FFSは主に少数派アマジク‐カビル系に支持された勢力であり、ここには独立戦争中は表面することのなかった多数派アラブ系と少数派アマジク‐カビル系の民族対立が隠されていた。
 FFSは1963年に大規模な反乱を起こすが、カビル系を超えた全般的な支持を得ることはできず、反乱は翌年までに政府軍により鎮圧され、内戦への進展はなかった。

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