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貨幣経済史黒書(連載第19回)

2018-11-03 | 〆貨幣経済史黒書

File18:1873年欧米恐慌

 1857年の米欧恐慌が一段落した後、1873年に恐慌が再発する。これも前回からは16年後、やはり忘れた頃の再発である。その影響は前回恐慌同様、やはり先発資本主義諸国に限局されてはいたが、前回がアメリカ発であったのに対し、今回は欧州発であった点が異なる。その意味では、1873年恐慌は「欧米恐慌」と呼ぶにふさわしかった。
 直接の引き金を引いたのは1873年5月、当時オーストリア帝国の帝都であったウィーンの証券取引所の崩壊である。意外な場所であるが、ウィーン証券取引所はマリア・テレジア女帝の治下でオーストリアが新興国として台頭していた1771年に設立された歴史ある取引所であった。
 このウィーン証取崩壊は最も初期における近代的証券バブル崩壊現象であり、その余波は当時工業化の一途にあったオーストリア国内にとどまらず、誕生したばかりの隣国ドイツ帝国にも及んだ。
 普仏戦争に勝利したドイツは、フランスからの多額の賠償金も元手に、好況に沸いていた。起業が相次ぎ、新銀行の設立、さらにはビスマルク政権による帝国統一通貨・金マルクの導入と金本位制への移行などを通じて近代ドイツの経済的基盤が作られようとしていた矢先の金融危機であった。ドイツにおける新規投機バブルはたちまちにして弾けた。
 他方、海を越えたアメリカでは南北戦争を経て連邦の統一が固まり、改めて鉄道敷設ブームの中、鉄道投資を中心に好況に沸いていた。この頃のアメリカでは、後の投資銀行制度につながる大口事業投資専門の個人銀行が隆盛化し、鉄道会社への投資熱を煽っていた。
 そのような個人投資銀行の一つ、ジェイ・クック銀行が1873年9月に破綻したのをきっかけに、同種銀行の破綻、さらにニューヨーク証券取引所の一時閉鎖という異常事態が続いた。
 これを合図に、当時アメリカにおける主要な労働セクターであった多数の鉄道会社の破産が相次ぎ、失業率が増大した。1877年に、45日間続いた鉄道労働者の一斉ストという民衆蜂起を招いた時、恐慌は政治的な意味合いをも帯びた。
 金融政策の面では、上述のように、ドイツのビスマルク政権が金マルクの導入により金本位制に移行し、銀貨廃止を決めたことを受け、アメリカでも事実上の金本位制への移行を画した貨幣鋳造法が制定されたため、国内の通過流通量が減少し、債務者に打撃を与えていた。このことも、アメリカにおける恐慌を助長した。
 ちなみに、南北戦争後に解放奴隷の生活資金援助を目的に設立されたフリードマン貯蓄銀行も、戦後の投資ブームの中で放漫融資に走り、1874年に経営破綻、貧困層の解放奴隷の黒人層も打撃を受けた。
 1873年恐慌の影響期間は欧米各国で多少異なりながらも、おおむね1879年から1880年代初頭までにはいったん収束を見る。しかし、この恐慌は従来のものとは異なり、単発的でなく、さらに世紀末にかけて向こう20年以上にわたり構造的な不況が持続する大不況を呼ぶことになる。その意味で、1873年恐慌は新たなエポックと言えた。

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