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貨幣経済史黒書(連載第12回)

2018-05-20 | 〆貨幣経済史黒書

File11:建国期アメリカの金融恐慌

 貨幣経済において最も恐るべき事象は、その名も恐慌である。ブリタニカ百科事典によれば、恐慌とは「景気循環の好況局面における過大な設備投資が不況局面の出発点において設備過剰をもたらし、生産と消費の間に大きな不均衡が起り、商品の過剰生産が一般化して価格が暴落し、企業倒産や失業が大規模に発生して生産、雇用、所得が急激かつ大幅に減少する現象」と定義されている。
 しかし、このような典型的に定義づけられる生産恐慌も、貨幣経済下ではそれ単独というよりは金融恐慌に関連づけられて生起することが多い。こうした金融恐慌は、18世紀末に建国されたアメリカ合衆国では建国当初から継起する経済事象となった。アメリカの歴史とは、一面で恐慌の歴史と言っても過言でない。
 アメリカでは建国間もない1790年代から、二つの金融恐慌を相次いで経験した。当初より自由放任的な資本主義をイデオロギーとして建国されたアメリカは、先住民から侵奪した広大な土地を開拓しつつ、急速な殖産興業によって旧宗主・英国に猛追している状況にあった。
 最初の恐慌は1792年の3月から4月にかけて発生した。これは、設立されたばかりの合衆国銀行による規律を欠いた金融緩和と一部投資家たちによる債務証券や銀行株の高騰を狙った投機が招いたある種のバブル的な信用恐慌であった。こうした投資家たちの債務不履行を契機に、証券市場の暴落、銀行取付騒ぎが続いた。まさにパニックを起こした合衆国銀行による急激な金融引き締めも恐慌を促進した。
 幸いにも、この時は合衆国銀行産みの親でもある有能な初代財務長官アレクサンダー・ハミルトンが迅速に介入、市中銀行に多額の通貨を投入して証券を購入させる公開市場操作を行なって短期間で沈静化させることに成功した。
 今一つは、ハミルトン長官退任直後に起きたより深刻な96‐97年の信用恐慌である。これは直接には土地投機バブルの崩壊によって発生した。建国当初、西部を中心に広大な未開拓地を抱えるアメリカは土地投機の草刈場であり、まだ建設中だった首都ワシントンもその舞台となった。
 1796年に土地バブルの崩壊に伴う不動産市場の暴落が起きたのに続き、翌年には海を越えた英国銀行がナポレオンによる英国侵攻危機の中、硬貨払い停止措置を取ったことはアメリカの投資家の破産を促進し、アメリカに深刻なデフレーションを引き起こした。
 余波は世紀をまたいで1800年初頭まで続き、東部に形成されつつあった多くの企業の倒産が相次いだ。その影響は、零細商店主や賃金労働者にも及んだ。連邦議会は対策として、アメリカ史上初となる1800年連邦破産法を制定した。この法律により、破産者を投獄する習慣に代え、破産を民事的に処理する契機となったことは一つの前進ではあった。
 こうしたアメリカ建国当初の金融危機は自由放任経済の無規律さや反連邦的なイデオロギーによる中央銀行制度や統一的銀行システムの不備といった特殊アメリカ的要因に加え、危機管理的な金融政策の未発達―ハミルトンが垣間見せたとはいえ―という当時の時代状況も影響していたであろう。ともあれ、19世紀のアメリカは急速な経済成長の影で以後も数々の金融恐慌に見舞われることとなる。

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