ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

マルクスは銅像を望まない

2018-05-06 | 時評

中国政府がカール・マルクス生誕200年を記念して、彼の郷里であるドイツのトリーア市にマルクスの銅像を贈呈したことが地元で紛議を呼んでいる。マルクスに関してはドイツでも賛否が絶えないだけに、予見された事態ではあるが、筆者はマルクスの銅像には賛成しかねる。

しかし、その理由は地元反対者が掲げる「マルクスは数百万人もの共産主義の犠牲者に対する間接的な責任がある」というようなことではない。このような理由付けは、冷戦時代の反共プロパガンダと何も変わらず、マルクスを読まずして否定する反共主義者の決まり文句に過ぎない。

反共主義者が憎むべき「共産主義」だと信じ込んでいるものがいかに共産主義にあらざるものかは当ブログが折に触れて論じてきたところであるし、かれらが主として念頭に置く旧ソ連体制(及びその亜流体制)がマルクスの理論からの離反の産物であることもつとに論証したので繰り返さない(拙稿参照)。

マルクスの銅像に反対すべき理由は、マルクス自身そのような偶像化を望まないはずだからというものである。マルクスは、偶像化に象徴されるような教条主義から最も遠い思想家であった。そのことは、彼のほとんど常に断片的かつ未完成ゆえにそこから教条を抽出することは困難な著作群に少しでも触れればわかることである。

マルクスは生前、一部の人の間でしか知られないマイナーな思想家であった。彼を偶像に仕立てたのは後世の人々であり、特にソ連共産党であった。中国共産党もその一つであるが、現在の中国共産党はマルクスからほど遠い資本主義街道を驀進中である。ある意味では、現代中国にとって、マルクスはもはや銅像として飾られるべき歴史上の人物に過ぎないのかもしれない。

ソ連共産党が奉じていたマルクスの偶像はその体制解体とともに砕け散ったが、約30年の時を経て、今度はマルクスが事実上用済みとなった中国共産党の手によって再建されたうえ、郷里に送還されたと象徴的に解釈することができるかもしれない。

いずれにせよ、マルクス生誕200周年になすべきことは、マルクスの偶像化ではなく、マルクスの再読解を通じて彼の思想を改めて真の共産主義社会構築の一助として咀嚼することである。それは、マルクスを正しく埋葬し直すことでもあるのである。

コメント