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農民の世界歴史(連載第32回)

2017-02-27 | 〆農民の世界歴史

第8章 社会主義革命と農民

(5)中国共産党と農民

 ロシア革命の結果誕生した共産党はレーニン主義的な「労農革命論」を基調としているとはいえ、労働者政党の性格が強いことは明白であり、農民中心の組織構成ではないことはもちろん、農民層の利益を充分に反映しているとも言い難かった。それに対して、中国共産党は様相を異にしている。
 中国では辛亥革命によって満州族系の清朝が倒され、漢民族が主導権を取り、ひとまず近代ブルジョワ民主政治への潮流が作られたが、国民政府中華民国は当然にも地主階級の利益を擁護する立場にあり、中国で膨大な数を占めていた貧農は軽視されていた。
 そうした中で、当初はソ連共産党主導のコミンテルンの影響下で結党された中国共産党は毛沢東という異色的な指導者の下で、ソ連共産党とは異なる道へ舵を切る。毛自身は地主階級の生まれで、自身は教師という知識中産階級に出自するが、中国においてはロシア以上に大きな割合を占める貧農を重視する思想を抱いていた。
 毛がそうした思想を抱いた契機は不明だが、早くも1926年の段階で農民運動に関心を示していた形跡がある。毛の思想はやがて「農民に依拠し、農村を革命根拠地に都市を包囲する」という革命戦略へ結実していく。
 これは単なるスローガンではなく、実際、毛は農民への情宣活動を活発化し、農民に地主の土地を横領するようにさせたため、農民は土地から追放され、共産党に合流し、革命運動に参加するようになった。毛はこうした農民兵を中核的な戦力とする強力なゲリラ軍を作り上げた。
 毛はそうした独自の手法をもって、江西省井崗山を皮切りに各地に農村革命根拠地を築いていき、そこでは富農を含む地主から土地を没収して農民に分配するという「土地革命」を実施していった。このようなやり方は綱領倒れに終わった19世紀の太平天国の社会主義的バージョンアップとも言うべきものであった。
 しかし、こうした農村根拠地戦略は当時の中国共産党指導部の総意ではなかった。毛は31年には江西省瑞金に「中華ソビエト共和国臨時中央政府」を樹立する勢いを見せたが、これに対する国民党軍の猛攻への対抗戦略をめぐる対立から、親ソ派党指導部により毛は指揮権を奪われ、土地革命も中止に追い込まれるのである。
 これに続く国共内戦、抗日戦争の経過やその過程での毛の復権については本稿の論外であるため、省略するが、農村に依拠する毛の革命戦略は同様に多くの貧農を抱える南/東南アジアや南米の革命運動に多大の影響を及ぼし、毛沢東主義(マオイズム)の思潮を生み出すことになる。

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