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ザ・コミュニスト

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農民の世界歴史(連載第10回)

2016-10-25 | 〆農民の世界歴史

第3章 中国の農民反乱史

(2)佃戸制の出現

 黄巾の乱を経て滅亡した漢帝国の後、黄巾軍を一部吸収した三国時代の魏は屯田制で戦乱により荒れた農地の回復を図り、魏を継承した西晋では占田・課田制と呼ばれる田地の再配分政策も施行されたが、いずれも半端な策であり、持続的な効果はなかった。
 大土地所有制に対する大きな改革策は、北方遊牧民に出自する鮮卑系北魏の均田制において実現された。均田制は、文字どおりに取れば、田地を均等に配分する制度であるが、基本的に軍事国家であった北魏の均田制は兵役としての府兵制とセット化された軍事的制度であった。
 しかも、これは既成の大土地所有制を根本的に否定するものではなく、大土地所有制を一定制約しつつ、それと並存するものであり、かつての限田制とは異質のものであった。一方で、前漢を打倒して一時的に新を建てた王莽が断行したある種社会主義的な土地の国有化(王田制)とも異なり、限定的な相続も認める緩やかな土地の公有化であった。
 そうした不徹底さは、均田制がある程度の成功を収めたゆえんであったかもしれない。均田制は、北魏を継承する北朝系の隋の時代に整備され、続く唐の時代に律令制的な土地制度として完成された。しかし、制度の不徹底さは制度解体への道も用意していた。
 唐中期になると、兵役負担の重さや天災による耕作不能などの事情から、逃亡農民が増加し、耕作地の兼併による再版的な大土地所有が出現し、逃亡農民を迎え入れつつ大土地に囲い込むケースも急増した。
 当局はこれに対する限田策のような抜本的対策は講じず、むしろ均田制を事実上放棄して、銭納を原則とする両税法を導入したことで、均田制による限定的な改革効果も消滅することになった。結局、唐の権力も大土地所有制の力には勝てなかったのであった。
 両税法施行下で形成された新たな農村では、土地所有者たる主戸と小作人たる客戸の階層化が進んだ。納税義務を負う主戸も資産額に応じて等級化がなされたが、客戸は納税義務を負わない反面、従属的な立場に置かれ、五代十国時代を経て成立した宋の時代には佃戸と呼ばれ、下層階級化されるようになる。
 佃戸に対して、富裕な上級主戸は地主として勢力を持つことから形勢戸と呼ばれ、宋時代にはこの階層から官僚を輩出した形勢戸を特にと呼ぶようになる。他方、佃戸の地位は地域により差異があったようであるが、逃亡が許されず、土地に拘束されて小作料を負担した限りでは農奴に等しいものであった。
 結局、前近代中国では様々な農地改革の試みが挫折した結果、このような佃戸制が広く定着していくことになった。しかし、皮肉なことに、このような制度下で、農業技術の進化もあり、特に江南地方における米の生産力が増大し、江南は中国最大の米どころに成長する。江南地方の発展は、やがてこの地方を地盤とする中国初の全国王朝である明の成立を用意したであろう。

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