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農民の世界歴史(連載第3回)

2016-10-10 | 〆農民の世界歴史

第1章 古代文明圏における農民

(1)メソポタミア文明圏及びインダス文明圏

 現時点では、人類史上いち早く農耕を開始したのは西アジアであったとされる。前回触れた現シリア領内のテル・アブ・フレイラ遺跡はその最古例の標準遺跡とされてきたが、近年イスラエルで2万年以上前に遡るという農耕遺跡が発見され、農耕史の見直しが行なわれる可能性がある。
 年代や正確な地点はともかく、西アジアが農耕の初発地であることに変わりない。特にメソポタミア文明圏はそうした農耕の土台の上に開花した最古の文明圏である。
 その出発点は、ティグリス及びユーフラテス河間の沖積平野で開花した紀元前5000年代に始まるウバイド文化と呼ばれる高度な農耕文化であった。当初は運頼みの天水農業からスタートしたウバイド文化人たちは、間もなく灌漑農業技術を開発し、農業生産力を飛躍的に増大させた。この頃より、農民は専従の階層として分化し始めていた。
 こうしたウバイド期を経て、メソポタミア都市文明が形成されていく。その担い手は民族系統不明のシュメール人であるが、おそらくかれらの祖先はウバイド文化人であり、農耕民から出た都市文明人であったと考えられる。シュメール人は、おそらくは前代のウバイド文化から継承・発展させた灌漑農業を高度に展開し、運河から引水した畑で、麦や豆類を中心に多岐にわたる作物を栽培するとともに、家畜の飼育も行なっていた。
 シュメール人の特徴は統一王朝を形成せず、複数の都市国家ごとに抗争する歴史を繰り返したことである。それぞれの都市国家は階層化されていたが、シュメール都市国家は農奴制を持たなかったようであり、シュメール社会の階層秩序は比較的水平なものだったと考えられる。ただし、シュメール最後のウル王朝期になると、支配層と農民層の階級分裂は相当に進行しており、古代王朝的な様相を呈するようになっていたと見られる。

 一方、インド亜大陸のインダス河流域にメソポタミアより遅れて紀元前2000年代中頃に開花したインダス文明圏も、統一王朝の存在が確認されず、流域都市国家が興亡する都市文明であった。この文明圏に関しては担い手民族を含め、いまだ謎が多いが、埋葬方法の社会的格差がさほど見られないことなどから、シュメール都市国家と同様、比較的水平な階層秩序を保持していたと考えられている。
 農民たちは、夏と冬の季節変化に応じた農業を展開し、モンスーン季のインダス河の氾濫を利用した氾濫農耕と初歩的な灌漑農業を組み合わせていたと考えられるが、灌漑技術はシュメール都市国家ほどに発達していなかったようである。
 インダス文明圏に関して注目されてきたのは、比較的短期間での滅亡要因である。かつて信じられたアーリア人征服説は年代の齟齬から近年では否定され、むしろ気候変動説が有力化している。特に、この地域に特徴的な夏季モンスーンの巨大化によるインダス河の大氾濫が想定されている。
 先述したように、インダス文明圏では灌漑技術の発達が不十分であり、こうした気候変動による大氾濫に耐えることはできず、農民たちは流域から周辺部へ集団移動し、都市国家の基盤が崩壊したと考えられるところである。
 第一次生産を支える農民の逃亡流出は、農産物の広域輸出入ができなかった時代においては、一つの文明圏の崩壊にも直結する大問題であった。そこから、農民の逃亡を許さず、土地にくくりつけて使役する農奴制のような新たな農民支配制度が創案されていったであろう。

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