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「女」の世界歴史(連載第32回)

2016-06-28 | 〆「女」の世界歴史

第Ⅱ部 黎明の時代

第三章 女帝の時代

[総説]:権力の女性化
 本章では、近世黎明期に現れた専制的な女王たちを「女帝」と呼ぶが、これは正式の呼称に関わりなく、専制的な女性君主全般の総称として用いることにする。
 このような強力な女帝を輩出した国自体は限られているが、いずれも当時の有力国であり、しかも女帝の時代は当該国の全盛期もしくは次代の全盛期を準備する役割を果たしていることが特徴である。
 このように近世の入り口の段階で女帝が出現し、権力の女性化現象が生じた理由としては、中央集権国家の発達が想定される。それ以前の時代、特に封建時代は各地に割拠した領主らが武力で自衛し、抗争し合った時代であり、中央権力は弱く、文官を擁する行政機構も未発達であった。それは本質的に、武装した男性権力を必要としていた。
 しかし中央集権制が発達してくると、権力頂点の最高執権者=君主には高い権威の象徴としてのカリスマ性が要求され、かつそれで十分であるため、女性でも資格が生まれる。そのため、一定の状況下で女帝が許容されるようになったと考えられる。
 とはいえ、〈序説〉でも述べたとおり、女帝は適任の男性候補が存在しない場合の代替的存在であるにすぎず、偉大な女帝の没後に女帝が長く途絶えたり、以後は輩出されなかったケースも多い。

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(1)近世帝国と女帝

①イサベル1世とレコンキスタ
 欧州における女帝の先駆けとなったのは、ルネサンス期の有力諸国、中でもスペイン、イングランド、スウェーデンに現れた女帝たちである。
 文化革命としてのルネサンスは女権の拡大を含んではいなかったが、古いキリスト教思想を革新した文化的・精神的な改革気風は、結果的に女帝を許容したとも考えられる。そうした近世帝国におけるルネサンス型女帝の初例と言えるのは、スペインのイサベル1世である。
 イサベルはイスラーム勢力からスペインを奪回するレコンキスタ運動の拠点であったカスティーリャ‐レオン王国のフアン2世の娘として生まれたが、幼くして父王が他界すると、後継の異母兄エンリケ4世により生母ともども追放され、不遇の時代を過ごした。
 しかし、エンリケはある種の性的不能者であったと見られ、継妃フアナとの間に生まれたとされる王女フアナは母の不倫による子であると噂された。そこで、有力者らはイサベルの同母弟アルフォンソを担ぎ出そうとする動きを見せたが、イサベルはこれに反対し、エンリケ在位中の後継論争を封じ込めた。
 さらに、イサベルは自身をポルトガル王妃として政略婚させようとする動きも拒否したうえ、当時地中海方面の大国となりつつあったアラゴン‐カタルーニャ王国の王子フェルナンドとの婚姻を目指し、交渉を重ねて結婚に漕ぎ着けた。そのうえで、エンリケ死去を受けて、夫とともに共同国王の座に就いた。
 こうしたイサベルの行動のすべてが必ずしも自身の自主的な判断によるものとは言い切れないとしても、イサベルには若年の頃から、当時の女性としては異例の自立的な精神が備わっていたように見える。
 イサベルは、夫フェルナンドとともに先のフアナを王妃に迎えたポルトガル王アフォンソ5世の軍事介入を退けたうえで、カスティーリャとアラゴンが統合して建国された新生スペイン王国の集権体制の基盤作りを推進した。
 そのうえで、夫とともにレコンキスタの完成に向けた解放戦争も主導し、1492年、最後まで残ったイスラーム勢力グラナダ王国を破り、800年に及んだレコンキスタに終止符を打った。この功績から、時のローマ教皇アレクサンデル6世によって夫妻は「カトリック両王」の称号を授与された。
 個人的にも強固なカトリック教徒であったイサベルは、内政面でもカトリック厳格政策を敷き、数多くの異端審問やユダヤ教徒、イスラーム教徒ら異教徒の弾圧を実行する圧政者としての一面もあった。
 その一方で、イサベラは大航海者コロンブスの後援者となり、スペインの大帝国時代を準備する役割をも担った。彼女は夫フェルナンドに先立って没したが、夫妻の娘フアナもフェルナンドの没後に女王となる。しかし彼女は精神疾患にかかり、長い間女子修道院に収容される境遇に置かれた。
 その間、息子カルロス1世は共同国王として政務を主導し、「日の沈まない国」スペイン帝国を築き上げたのであった。ただ、保守的なスペインでは、フアナ女王の没後、女王は19世紀のイサベル2世に至るまで途絶える。

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