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戦後ファシズム史(連載第42回)

2016-06-21 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相

2‐5:エリトリアの場合
 東アフリカの小国エリトリアは1993年にエチオピアから分離した新興独立国家であるが、この国では30年に及んだ独立戦争で功績のあったイサイアス・アフウェルキ初代大統領による強固な全体主義体制が続いている。
 イサイアスは元来、マルクス主義系のエリトリア独立運動組織・エリトリア解放戦線(ELF)に参加、60年代の中国に留学し、毛沢東思想やゲリラ戦について研修して帰国後は、若くして軍事部門幹部となる。しかし、ELF内部の路線対立が激化する中、70年代にELFから分派したエリトリア人民解放戦線(EPLF)の創設に参加し、87年に同組織トップの書記長に就任した。
 EPLFが創設された時点では、エリトリア民族主義とともにマルクス‐レーニン主義も掲げる左派民族主義的な武装組織であり、独立戦争相手のエチオピアもまたマルクス‐レーニン主義を標榜する軍事独裁政権というマルクス主義標榜勢力同士の戦争であったが、その背後にはエリトリアを支援する中国とエチオピアを支援するソ連の対立があった。
 最終的に、EPLFは91年、エリトリア全域の制圧に成功し、独立を勝ち取った。その後、国連が支援する住民投票を経て、93年、正式に独立国家エリトリアが成立した。その際、EPLFがそのまま支配勢力として政権を樹立し、イサイアスが初代大統領に就任した。
 政権樹立後のEPLFは「民主主義と正義のための人民戦線」に改称したうえ、脱マルクス主義化によりイデオロギー色を薄めた包括的翼賛政党へと変質していき、速やかにイサイアス独裁のマシンとなった。その点で、この体制は一部の旧ソ連諸国とも類似する成立過程をたどった管理ファシズムの一類型と言える。
 エリトリアは発足後間もない98年から、旧所属国エチオピアとの国境紛争に端を発する再戦争を経験し、2000年の停戦後もエチオピアとの緊張関係から、軍事費がGDPの20パーセントを占め、18歳以上の健康的なすべての男女に厳格な兵役を課す国民皆兵体制を維持している。その点では、軍国的な戦前型ファシズムに近い性格をも持っている。
 他方で、兵役と結びついた国家奉仕という名分での強制労働を通じたインフラ整備や鉱山開発などの手法により、豊富な天然資源を基盤とする経済開発にも注力し、高い経済成長を達成するなど、イサイアス体制には開発ファシズムの性格も見て取れる。
 こうした体制は外国メディアの入国を認めない徹底した報道統制と治安機関による監視や超法規的処刑といった人権抑圧によって支えられており、逃亡者への厳罰にもかかわらず、過酷な兵役・労役を忌避して地中海を渡る難民を数十万規模で出すなど、その人権状況は世界的にも最悪部類に属すると評されている。
 にもかかわらず、元来関係の深い中国資本や日本を筆頭とする先進諸国の援助にも支えられ、現時点では独立運動英雄としてのイサイアス大統領のカリスマ的な権力に揺らぎは見られず、その体制は存続していくと見られる。

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