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戦後ファシズム史(連載第39回)

2016-06-06 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相

2‐2:エジプトの場合
 エジプトでは、ナセルに率いられた自由将校団による1952年の共和革命後は、アラブ社会主義を掲げたナセルの親ソ社会主義体制が敷かれたが、ナセルが1970年に急死した後は、革命の盟友でもあった後継者サダトの下で脱社会主義化が図られる。 
 サダト政権はイスラエル国家の承認という画期的な外交政策の転換に踏み切ったが、政権としては過渡的で不安定な性格が強かったところ、サダト大統領は81年、イスラーム原理主義者の一将校により暗殺された。
 その非常事態下で登場したのが、ホスニ・ムバーラクであった。彼は空軍パイロットの出身で、若くして空軍司令官となり、73年の第四次中東戦争における功績から、75年以来、サダト政権の副大統領の座にあった。
 ムバーラクは以後、2011年、「アラブの春」の一貫としての民衆革命で政権を追われるまで、エジプト共和制史上最長の30年にわたって大統領として権力を維持した。
 この間のムバーラク体制は、サダト暗殺事件後の非常事態宣言を恒常的に維持し、常時非常大権を掌握しながら、全体主義的な社会管理を徹底するというものであった。とりわけ、サダト暗殺にも関与したイスラーム原理主義勢力に対しては封じ込めを徹底した。
 統治のマシンとしては、サダト時代の与党として設立された国民民主党が利用された。この党は元来、ナセル時代の与党・アラブ社会主義同盟が社会主義色を薄めて再編された中道左派政党であったが、ムバーラク時代にはムバーラクのマシンとして、各界に根を張る支配政党に作り変えられていた。
 従って、この党も本来的なファシズム政党ではないが、ムバーラク体制下における実態としては、全体主義的な包括政党の性格が濃厚であり、その点でムバーラク体制は不真正ファシズム型の管理ファシズムであったと考えられる。
 ムバーラク体制は外交上は親米(対イスラエル宥和)の立場を堅持し、冷戦終結後は湾岸戦争やアフガン戦争でも対米協力を行い、米国を後ろ盾につけて体制保証としていた。国内的には、秘密警察を活用した抑圧を敷く一方で、サダトの脱社会主義化路線を継承して経済開発を進め、80年代前半には高い経済成長を示した。
 2000年前後から、新自由主義政策の施行により民営化など市場主義的な改革を推進し、再び経済成長を軌道に乗せるが、一方では長期政権に伴う腐敗の蔓延や自身を含む一族の蓄財が体制を内部から腐食させていた。
 そうした中、チュニジアに発した民衆革命「アラブの春」は磐石と思われたムバーラク体制にも波及してきた。2011年1月末以降、エジプトでも民衆デモが拡大し、これを強権的に弾圧することを断念したムバーラクは2月、大統領辞職を表明した。
 こうしてムバーラク体制は幕を閉じ、翌年実施された史上初の直接大統領選挙では、長年の野党ムスリム同胞団系のムハンマド・ムルシーが選出された。市民殺害などの罪で起訴された高齢のムバーラクは、終身刑判決を受け、収監された。
 この流れを再び覆したのは、2013年、イスラーム主義的な改憲を強行しようとして反発を招いていたムルシー政権を軍事クーデターで打倒したアブドルファッターフ・アッ‐スィースィであった。当時国防相だったスィースィは治安回復を名目に大量処刑・拘束を断行し、形式的な民政移管プロセスを経て、2014年に大統領に選出された。
 スィースィはムバーラク時代に立身した職業軍人であり、スィースィ政権の性格はムバーラク体制の継承者である。ただし、ムバーラク時代の与党国民民主党は解体されており、現時点でスィースィは標榜上無所属である。
 そのため、スィースィ政権の性格はなお不確定であり、ファシズムというより管理主義的な擬似ファシズムと言えるかもしれない。ただ、長期政権化すれば、新たな包括与党が結成され、第二の管理ファシズムが明確に出現する可能性はある。

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