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戦後ファシズム史(連載第40回)

2016-06-07 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相

2‐3:ウガンダの場合
 ウガンダでは1970年代、擬似ファシズムの形態ながらアミンの暴虐な独裁体制下で多大の犠牲を出したことは以前に見たが(拙稿参照)、アミンがタンザニアの軍事介入によって打倒された後も、ウガンダでは混乱が続いた。
 一度はアミンによって追放されていたオボテ大統領が復帰するも、アミンさながらの暴虐に走り、81年以降は内戦状態となる中、85年には軍事クーデターで再び政権を追われた。翌年、この混乱を収拾したのは、ヨウェリ・ムセヴェニに率いられた反政府ゲリラ国民抵抗軍であった。
 ムセヴェニは元マルクス主義者にして、第一次オボテ政権時代の情報機関員も務めたが、アミンのクーデター後、タンザニアに逃れ、反アミン闘争に没入した。79年のアミン打倒作戦にも参加したが、第二次オボテ政権とは対決し、反オボテ闘争を開始する。
 86年に武力で全土を制圧した国民抵抗軍(国民抵抗運動)が樹立した体制は革命政権の性格が強く、各地区に設置された抵抗評議会が地方の政治経済を担う機関とされ、政党ベースでの選挙参加を禁ずるある種の草の根民主主義の形が取られていた。
 そうした体制下で、ムセヴェニは世界銀行やIMFの構造調整政策をいち早く取り入れて、長年の独裁と内戦により崩壊状態にあったウガンダ経済の建て直しと経済開発に取り組み、ウガンダを安定化させることに成功した。
 このように、国民抵抗運動体制には政党によらない民主主義の実験とも見える一面があったが、一方で北部を中心になお完全には鎮圧できない反政府勢力への対抗上、体制は次第に統制的な治安管理体制を取るようになっていく。
 その頂点に立つムセヴェニ大統領は革命10周年の96年まで大統領選挙を行なわずに統治した。96年の選挙で圧勝したムセヴェニはその後も5年ごとに多選を重ね、今日に至るまで30年に及ぶ政権を維持している。
 この間、2005年以降ようやく複数政党制が導入されたが、国民抵抗運動は議会において圧倒的な多数を占めており、政権独占状態は不変である。
 ムセヴェニの国民抵抗運動体制は、親米欧かつ新自由主義的な構造調整にも積極的なことから、ムセヴェニはアフリカの新世代指導者として称賛され、国際的な非難を受けることは少ないが、少なくとも初期の草の根民主期を除けば、90年代以降の実態としては、開発ファシズムの傾向も伴った管理ファシズムの性格を強めていると言える。
 また90年代後半以降は対外的な介入戦争にも加わり、とりわけザイールのモブトゥ・ファシスト政権の打倒やその後に発生した第二次コンゴ戦争に関与するなど、侵略主義的な傾向も見せ始めた。
 近年になると、NGOの活動の制約や、公共秩序法による集会の自由の制限、さらにはアフリカでは成功例とされるエイズ対策に仮託した同性愛者厳罰法などの管理主義的な立法が累積されてきている。
 政権の長期化に伴う汚職も深刻化しているが、全体主義的管理体制が独立以来混乱続きのウガンダに相対的な安定をもたらしていることも事実であり、体制が大きく揺らぐ気配は現状では見られない。

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