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戦後日本史(連載第5回)

2013-05-23 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

序章 占領=革命:1945‐49

〔四〕冷戦と占領理念の転回

 1947年、いわゆる東西冷戦が幕を開けると、連合国の占領=革命も重大な転機を迎える。言わば占領第二期である。
 米国はソ連と接する日本を対ソ連との関係で「反共の砦」として再構築する地政学上の必要性に直面した。結果、占領=革命の理念も反共的な転回を見せる。
 その最初の徴候は労働運動の抑圧に現れる。占領政策の重要な柱の一つであった労組の助長は公務員の労組結成の自由化を実現し、官公労組を戦後労働運動の主役に押し上げようとしていた。その最初の高揚が47年2月1日に予定されていたゼネストであった。しかしGHQは2・1ゼネストを禁止する命令を発し、封じ込めを図ったのである。
 それでも、同年4月の総選挙では戦後合法化された旧無産政党を結集した日本社会党が第一党に躍進し、同党委員長・片山哲を首班とする史上初の社会党系内閣(中道保守系政党との連立)を成立させた。
 この出来事はまさに占領=革命の一つの政治的所産と言えたが、一方で片山内閣は賃金抑制と大量解雇を容認する企業整理を後押しし、これに対する労組の地域闘争が活発化すると、これを「山猫スト」とみなして厳罰で臨む姿勢を鮮明にするなど、この史上最初にして最後となる社会党主導の左派政権は転回し始めた占領=革命の理念に強く制約されていた。
 結局、片山内閣はほとんど唯一の「社会主義的」な政策であった炭鉱国家管理政策をめぐる政権内の混乱などから48年3月に総辞職し、連立与党の一つであった中道保守政党・民主党の芦田均総裁を首班とする内閣に交代した。
 この芦田内閣の下、GHQの意向を受けた政令をもって公務員の争議権が禁止され、同内閣が48年10月に疑獄事件を機に総辞職した後、政権に返り咲いた保守系・吉田茂を首班とする第二次吉田内閣の下で国家公務員法が正式に改定され、公務員の労働基本権を厳しく制限する現行制度の骨格が定まる。
 職業外交官出身の吉田は以後、52年の占領終了をまたいで54年まで首相の座を維持するが、その間、彼は占領当局の反共政策を体現し、その忠実な代理人として次章で見る数々のいわゆる「逆コース」施策を独特の強いリーダーシップを駆使して推進していくことになる。
 占領当局=GHQ内部においても主導権の交替が起きていた。当初、社民主義的な諸改革を主導していたのはGHQでも左派色の強い幕僚部民政局であったが、冷戦開始後は反共・保守色の強い諜報担当の参謀第二部(G2)が主導権を握るようになっていた。
 G2からすると、民政局の面々は「レッド」(共産主義者)とは言わないまでも、「ピンク」(容共主義者)と映っており、日本を共産化という危険な方向へ誘導しかねないことを憂慮していたのだった。
 49年に入ると、下山事件・三鷹事件・松山事件と、いずれも当時大量解雇の嵐の中、最も戦闘的な労組として台頭しつつあった国鉄労組に関わる謀略事件が立て続けに発生する。
 これら三事件の真相は―三鷹事件のように主犯とされた者の死刑判決が確定したケースも含め―今なお不明であるが、今日ではいずれも国鉄労組の切り崩しを狙った政治謀略事件であった疑いが濃厚となっており、こうした謀略事件の背後にG2の関与があったものと見られる。
 これに先立つ48年における財政均衡政策を中心とする経済安定九原則とそれに基づくドッジライン、翌年の大企業減税を柱とするシャウプ勧告は民間企業・行政機関双方での人員整理を強い、大量の失業者を産み出すことになったが、これに対する官民労働者層の抵抗が強まると、占領当局とその意を受けた日本政府は力による抑圧で応じたのである。
 こうした冷戦開始以後の占領=革命の理念的転回はしかし、当初の理念と完全に断絶されたものではなく、その一つの必然的な転回方向であった。
 前にも指摘したように、占領=革命はワイマール体制を産み出した1919年ドイツ革命と同様に、リベラルなブルジョワ民主主義革命の域を出るものではなかったから、労働運動が占領当局の許容限度を超えて隆起した時、折からの冷戦の開始という国政情勢の変化にも後押しされて、資本制護持のための抑圧政策へと容易に転回していったのである。

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