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戦後日本史(連載第4回)

2013-05-22 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

序章 占領=革命:1945‐49

〔三〕占領=革命の理念〈2〉

 連合国の占領は、前回見たように内容上は社会民主主義的なブルジョワ革命の性格を持っていたが、主権の所在の変更が実現されたことで形式上も革命的性格を帯びるに至った。すなわち天皇主権から国民主権への転換である。
 占領当局は先の「五大改革指令」とは別途、政体に関しても46年2月のGHQ改憲案(いわゆるマッカーサー草案)の形で、国民主権・象徴天皇制を明示した。
 この草案は、当初占領当局の示唆を受けて日本側が独自に作成した改憲案(いわゆる松本私案)の中で明治憲法上の天皇主権の大原則を維持しようとしていたことをGHQが不満とし、事実上日本側のこうした保守的な態度を拒否して、明確に政体の変更を要求したものにほかならなかった。
 これはポ宣言受諾の時から「国体」の護持に固執していた日本支配層にとっては受け入れ難いことであって、マッカーサー草案に対しては国民主権の原則を極力骨抜きにするような修正文言を加えて抵抗を示したものの、結局草案の線で妥協が成立したのであった。
 このような経緯から窺える占領当局の政治的理念は、ブルジョワ民主主義の表現である国民主権論にあったと言える。逆言すれば、より革命的な人民主権ないし民衆主権の理念は否認されており、天皇に代わる新たな主権者は無産階級ないし草の根民衆ではなく、ブルジョワ市民階級であることが含意されていた。
 一方、天皇制の存廃をめぐる占領当局の考え方は当初定まっていなかったようであるが、結局ストレートに天皇制廃止・共和制移行へ突き進むことに伴う政治的な混乱を恐れ、天皇制の枠組み自体はこれを温存しつつ、その実質を変更する方針で固まっていく。
 その結果、天皇制護持だけは譲れない日本側との妥協が成立し、象徴天皇制に落ち着くわけであるが、この制度は結局のところ、西欧的な立憲君主制の相応物であった。
 しかし、君主の権能が憲法上厳格に制約されながらも、なお一定の政治的権能を留保する国家元首の地位を保持していることが多い西欧立憲君主制とも異なり、新憲法に現れた天皇は一切の政治的権能を有しない純粋に象徴的な存在とされ、君主=国家元首としても明示されないという点で、西欧立憲君主制よりもいっそう徹底した名目君主制の一形態である点に特質がある。
 こうした点を見ると、国民主権に立脚した象徴天皇制とは限りなく共和制に近いブルジョワ民主主義の特殊な産物であり、ここに占領=革命のブルジョワ的な政治理念が深く埋め込まれていると言えるであろう。

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