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戦後日本史(連載第2回)

2013-05-15 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

序章 占領=革命:1945‐49

〔一〕占領=革命の開始

 1945年8月14日、ポツダム宣言(以下、「ポ宣言」と略す)の受諾により大日本帝国は事実上崩壊した。その体制を産み出した明治維新から起算すると一世紀は持続せず、およそ80年の命脈であった。
 現在の日本からはなかなか想像もつかないことであるが、大日本帝国は戦争にはめっぽう強かった。明治時代における二つの大戦、日清・日露両戦争での勝利に続き、大正時代の第一次世界大戦も側面参加にとどまったとはいえ、勝ち組に身を置き、戦争景気と戦間期における経済成長・高度資本蓄積のきっかけを掴んだ。
 ところが、第二次世界大戦では過去の戦争政策での成功体験ゆえの過信からか、無謀な戦略のために初の敗戦を喫した。それも人類史上初の原爆投下という手痛い破壊を伴う木っ端微塵の敗北であった。
 ポ宣言の受諾により主権もいったん没収され、米国を筆頭とする連合国の占領を受け入れなければならなかった。その結果、45年以降占領下での諸改革が開始される。本連載ではこうした連合国による占領を一種の革命ととらえるところから出発する。実際、占領下での憲法改正を伴う改革は、ゆうに革命と呼んでよい内容を伴っていた。
 特に焦点の憲法改正では天皇主権から国民主権への変更が実現された。この点で、明治憲法から昭和憲法への変移は通常の意味での「改憲」ではなく、旧憲法の廃棄と新憲法の制定という革命的なプロセスであった。そこで、明治憲法体制から昭和憲法体制への変革を画したポ宣言の受諾を一種の革命とみなそうという「8月革命説」という理論が、当時の有力な憲法学者であった宮沢俊義によって提唱された。
 だがこれは法学的なロジックにすぎず、ロジックとしても8月14日に革命が起きたと仮定するのは適切でない。ポ宣言は、日本に対して軍国主義勢力の排除と民主主義傾向の復活を要求してはいるが、体制変革については黙しており、ポ宣言受諾の時点では、どこまで体制の根幹にメスを入れられるか不明であった。天皇主権の変更にとどまらず、社会経済構造にまで及ぶ連合国側の根本的な体制変革の意思が明確になるのは、翌46年に入ってからのことであった。
 それまでまだ法的には存続していた大日本帝国の支配層主流は部分的な憲法改正と政策変更程度の手直しで容赦され、再出発できると高をくくっていたのだった。ただ、ポ宣言の受諾までに時間がかかり、その間に原爆投下を許したのは、戦前からの官僚主義的な「決められない政治」のゆえばかりではなく、「決められない理由」もあった。
 実際、ポ宣言の内容解釈をめぐり、体制変更の趣旨を含むのかどうかについての不安が支配層内部にあったことは事実である。すでに革命的介入の予感がしていた。実際、ポ宣言は間もなく開始される、支配層にとっては受け入れ難い占領=革命の序曲であった。

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