ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

マルクス/レーニン小伝(連載第25回)

2012-10-11 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第4章 革命実践と死

(6)最後の日々

第一インターの解散
 バクーニン派除名を決議した第一インター1872年ハーグ大会は、総評議会のニューヨーク移転をも決議した。これは第一インターの事実上の終焉を意味していたが、果たして76年のフィラデルフィア大会はインターの正式な解散を決議した。64年の結成からわずか12年での幕切れであった。
 こうして第一インターの短命さは、その後何度か結成し直された労働インターナショナル組織の短命さの先例ともなった。このことはマルクスが重視した国際労働運動の困難さ、特にそのセクト主義的分裂傾向を止揚することの難しさを示すものでもあった。第一インターの失敗は一方で、マルクスの理論がいまだ各国労働運動の間に浸透しておらず、マルクス支持派が十分な勢力を持っていないことも証明した。
 それにつけても、晩年のマルクスが最も力を込めて取り組んだ革命実践が第一インターの活動であったから、その挫折はマルクスに重くのしかかった。振り返れば、若き日の共産主義者同盟の活動以来、マルクスが関わった革命実践の中で長続きしたものは一つもなかった。改めて革命実践の難しさをかみしめつつ、彼は老境に入っていくのである。
 すでに長年の貧困の中で骨身を削るような研究に苦労の多い実践も重ね、マルクスの健康状態は悪化し始めており、長生は望めそうになかった。

最後の経済学研究
 健康悪化の中でもマルクスが最後まで決して歩みを止めようとしなかったのが、経済学研究であった。彼は『資本論』第1巻の続巻の公刊を目指して鋭意草稿を執筆していたが、1870年代からは特にロシア農村の研究に取り組み始めていた。
 マルクスが注目していたのは、ロシア農村共同体(ミール)に残る伝統的な農民の土地共有慣習であった。彼はロシアの知人などを通じてロシアの土地制度に関する公式統計や刊行物を取り寄せて読解を進め、エンゲルスによれば「(『資本論』第3巻の)地代に関する篇では第1部(第1巻)の工業賃労働の所で英国が演じたのと同じ役割をロシアが演ずるはずであった」が、マルクスの健康状態がそれを許さなかったのである。
 それでもマルクスはこの頃、まだ資本主義の発達が遅れていたロシアにおける農民革命の可能性を視野に入れるようになっていた。そうすることによって、彼は当時のロシアに台頭していたミールを土台とする農民社会主義を目指すナロードニキ派の思想に図らずも接近しつつあったのである。実際、マルクスは、ナロードニキ分派に属し、後年ロシア初のマルクス主義政党・社会民主労働者党メンシェヴィキ派に転じた女性活動家ヴェラ・ザスーリチと文通していた。ちなみに彼女は82年に出た『共産党宣言』ロシア語新版の訳者ともなった。
 マルクスとエンゲルスはこのザスーリチ訳『共産党宣言』に寄せた序文の中で、「ロシア革命が西欧におけるプロレタリア革命への合図となり、その結果両者が互いに補い合うならば、現在のロシアの土地共有制は共産主義的発展の出発点として役立ち得る」とするロシア革命テーゼを仮定的な形で提出するに至った。
 ただし、マルクスはロシアの土地共有制が政府によって上から解体され消滅する可能性も考慮していた。実際、マルクスの死後、ほどなくしてロシアはその方向に進み、資本主義の急速な発達を見たのであるが、なお農業を主軸とする農業国である現実に変わりはなかった。ロシアのこうした微妙さが、後にマルクス主義の革命家レーニンの特殊な革命戦略「労農革命論」を導き出すことになる。
 マルクスがもう少し長生し、実際にロシア農村研究を完成させていれば、彼のロシア革命論もさらに進展したかもしれないが、それはかなわなかったのである。

失意と死
 もはや衰えを隠せなくなっていたマルクスの心身に最後のとどめを刺したのは、妻と長女の相次ぐ死であった。
 まず1881年12月、妻イェニーが肝臓癌のため死去した(享年67歳)。これだけでもマルクスには打撃であったが、続いて83年1月にはフランスの社会主義者シャルル・ロンゲの妻となっていた長女ジェニーが死去。これでマルクスは6人中4人の子に先立たれたことになる。
 こうして失意の底に沈んだマルクスは長女の死から間もない1883年3月14日、ロンドンの自宅で生涯を閉じたのである。享年64歳。死因は妻イェニーと同じ肝臓癌であった。同月17日の埋葬式には、エンゲルスをはじめ約20人の近しい人たちが参列するだけの簡素なものであった。
 エンゲルスは弔辞の中で、マルクスを「現代最大の思想家」と称えたが、実際のところ生前のマルクスは晩年になってようやく知る人ぞ知るという程度のマージナルな存在にすぎず、エンゲルスの賛辞には誇張が含まれている。何よりもおよそ30年の亡命生活を送り、そこに骨も埋めた英国において、彼は影響力を持っていなかった。
 マルクスの死の翌年に結成され、シドニーとベアトリスのウェッブ夫妻を理論的支柱とし、後に議会政治の枠内で大成功を収める英国労働党の前身組織の一つともなったフェビアン協会は、マルクスとは無縁の穏健な改良主義的社会主義の団体であった。
 ところで、ここに面白い偶然が二つある。一つは、マルクスの生没年はロシア農奴制の批判者であったロシアの文豪トゥルゲーネフと全く同じであったこと。もう一つはマルクスの没年1883年には、やがて20世紀の資本主義経済学の泰斗となるジョン・メイナード・ケインズが同じ英国で生誕していることである。後にマルクス理論から離脱していったいわゆる「修正主義者」たちがマルクスに代わってすがるのが、このケインズなのであった。

コメント

マルクス/レーニン小伝(連載第24回)

2012-10-05 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第4章 革命実践と死

(5)労働者諸政党との関わり(続き)

「ゴータ綱領批判」をめぐって
 
ドイツ社労党綱領を批判したマルクスの論文「ゴータ綱領批判」は、ほとんど逐条的な形式で細かな字句の使い方に至るまで立ち入って綱領文言を「添削」しているが、それに付随する形で『共産党宣言』でもほとんど空欄とされていた共産主義の定義やその内実について初めてかなり具体的に開陳している点で重要な文献である。
 それによると、資本主義社会からプロレタリア革命・プロレタリアの革命的独裁の時期を経て到達する共産主義社会とは「生産手段の共有を基礎とする協同組合的な社会」と定義づけられる。しかも、この共産主義社会は「資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会」(低次共産主義社会)と「それ自身の基礎の上に発達した共産主義社会」(高次共産主義社会)の二段階に整理されている。
 このうち「経済的にも、道徳的にも、精神的にも、この共産主義社会が生まれてきた母胎である古い社会の母斑をまだ付着させている」と形容される低次共産主義社会では、なおブルジョワ的な等価交換原理が残存するものの、商品交換は廃され、各人は賃労働で得た賃金で商品を購入するのではなく、自らの労働量(労働時間)に相当する量の物資―そこから社会共同目的に供出される分が控除される―を取得することができる。例えば8時間労働をした労働者Wは、資本主義社会におけるように8時間労働で得た賃金の範囲内で商品Cを購買するのでなく、同等の8時間労働に相当する量の物品G(t8)―以下、当該物品の労働時間量をこのように表記する―を取得するのである。
 こうした等労働量交換の仕組みを担保するための手段として、マルクスは一定量の労働を給付したことを証する「労働証明書」なる一種の有価証券の制度を提唱している。それによると、例えば先の例で、労働者Wは8時間労働分の労働証明書の発行を受け、これと引き換えに消費財G(t8)を取得する。従って、8時間労働分の労働証明書では10時間労働に相当する消費財G(t10)は―それを分割できない限り―取得できないことになる。
 このような低次共産主義の段階ではすでに階級格差は廃されているが、個人の能力や既婚・単身の別や子どもの有無・人数などによる格差はなお残される。しかしそうした権利内容の不平等は、マルクスによれば「長い産みの苦しみの後に資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会の第一段階では避けることができない」のである。
 それでは「共産主義社会のより高い段階」である発達した共産主義社会(高次共産主義社会)とはどういうものか。これについては、マルクスのいつになく美文調の文学的表現をそのまま引用してみよう。
「すなわち、分業の下への諸個人の奴隷的な従属がなくなり、それとともに精神労働と肉体労働との対立もなくなった後で、諸個人の全面的な発達に伴い、かれらの生産諸力も増大し、協同組合的富のあらゆる源泉がいっそう溢れ出るほど湧き出るようになった後で、―そのとき初めて、ブルジョワ的権利の狭い限界が完全に乗り越えられ、そして社会はその旗に次のように書き記すことができる。各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!」
 このような共産主義の最高段階に達すると、低次共産主義社会における等労働量交換も廃され、人々は各自の能力に応じて労働し、かつ各自の必要に応じて消費することができるようになるのである。言い換えれば、それは労働(生産)と消費(分配)とが完全に分離された社会にほかならない。
 なお、マルクスはあえて明言しないが、共産主義社会では貨幣制度(正確には商品‐貨幣交換)も廃されることが暗黙の前提とされている。
 このようなマルクスの「二段階共産主義」テーゼをいかに受け止めるべきかは、なかなか難しい問題である。実はマルクスが提唱する低次共産主義社会における「労働証明書」とはロバート・オーウェンの「労働貨幣」にヒントを得たものであるし、高次共産主義社会の標語「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて」も、マルクスがパリ遊学時代に交流を持ったフランスの初期共産主義者カベーのユートピア小説『イカリア旅行記』から採られている。
 しかし、オーウェンやカベーは、つとに『共産党宣言』の中で「空想的社会主義(共産主義)」として却下されていたはずのものであった。そしてエンゲルスによれば、マルクスは唯物史観と剰余価値の「発見」を通じて「空想から科学へ」到達していたはずであった。すると、マルクスは晩年に至って、今度は「科学から空想へ」逆戻りしてしまったのであろうか━。
 また、『ドイツ・イデオロギー』では共産主義は創出されるべき一つの状態とかあるべき一つの理想ではなく、現実的な運動であると言明されていたはずであるのに、「ゴータ綱領批判」のマルクスは共産主義社会を創出されるべき状態またはあるべき理想として描き出そうとしてはいないだろうか━。
 こうした揚げ足取り的な疑問はさておくとしても、等労働量交換原理を基礎として労働証明書で消費が規律される低次共産主義社会と労働と消費とが完全に分離される高次共産主義社会とでは、単に低次・高次という程度問題を超えた基本原理の相違があり、その間には新たな社会革命を必要とするのではないだろうか━。
 また、そもそも『共産党宣言』でも提示されていた生産手段が国有化される過渡期の状態から「協同組合的な社会」である共産主義社会への移行―それは国家論としてみれば政治国家から経済国家への転換に対応する―はいかにして可能なのであろうか━。
 このように数々の疑問が浮かぶわけであるが、マルクスをして「ゴータ綱領批判」の中で付随的な形ではあれ、従来の自説に抵触しかねないような共産主義テーゼを吐露せしめたものは、ラサール主義によって弛緩させられたドイツ社労党とその綱領に対する失望と憤懣とであっただろうことは、想像に難くない。

フランス労働者党との積極的関わり
 ドイツ社労党との関わりが批判的なものであった反面、マルクスがより積極的な関わりを持ったのは故国ドイツよりもフランスの労働者政党のほうであった。
 フランスでは、先述したように、1871年にパリ・コミューンが敗北した後、コミューン関係者に対する大量処刑・投獄が行われ、革命運動は一気に再び冬の時代に入っていた。しかし、第三共和政は75年に憲法を制定した後、コミューン関係者を大赦するなど抑圧を緩和する姿勢を示したことから、フランスでも労働者政党を結成する動きが生じた。その最初の試みは、当時のフランスにおける数少ないマルクス理論の紹介者であったジュール・ゲードとマルクスの次女ラウラの夫でもあったポール・ラファルグを中心に結成されたフランス労働者党であった。
 マルクスとエンゲルスはラファルグを通じて党綱領の作成に関して相談を受けたことから、80年5月、ロンドンにマルクス、エンゲルスとラファルグ、ゲードが集まって党綱領の起草について協議したのであった。
 その際、マルクスが口述したものをゲードが筆記した綱領前文では、プロレタリアートの解放は生産手段の集団所有によってのみ可能であること、そしてそのような集団所有は一つの確固とした政党に組織されたプロレタリア階級の革命的な行動を通じてのみ立ち現れること、同時にプロレタリア階級は普通選挙への参加を通じて当面の要求を実現することも必要であることなどが明記された。
 前文に続いて、マルクスとエンゲルスの見解も反映しつつ当面の最小限要求事項を掲げる「政治綱領」と「経済綱領」とを含む綱領は、80年11月の党全国大会で一部修正のうえ採択された。
 こうして正式に発足したフランス労働者党はマルクス理論に依拠した初の近代的政党であった。しかしマルクスは間もなく、自身の理論を教条的に理解するゲードやラファルグとも関係が悪化していくのであった。この時吐露されたマルクスの有名な言明が、「もし彼らの政治がマルクス主義を代表しているなら、私自身は決してマルクス主義者ではない」であった。

コメント

マルクス/レーニン小伝(連載第23回)

2012-10-04 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第4章 革命実践と死

(5)労働者諸政党との関わり

マルクスと政党
 マルクスの晩年になると、ようやくヨーロッパ各国で議会制が発達してくるのに照応して近代的な政党組織・運動も活発化し始める。それに伴い、労働者階級も政党作りを模索するようになった。マルクスの故国ドイツでも1869年には中部の都市アイゼナハで社会民主労働者党(アイゼナハ派)が結成される。この党は、ラサールによって63年に結成されていたドイツ労働者総同盟から分裂してできたものであった。
 しかし、マルクスはこの党の結成にも運営にも直接関わることはなかった。それは単に彼自身は労働者でなかった、というよりなれなかった―彼は長く寄稿し、ほぼ唯一の収入源としていた米国の新聞『ニューヨーク・トリビューン』が南北戦争渦中で南部の奴隷制諸州への妥協的姿勢を強めたことから61年、同紙への寄稿を打ち切り、翌年にはある鉄道事務所に就職しようとしたが、マルクスによれば「悪筆」が原因で不採用となった―ということ以上に、マルクスが党派的活動には相当慎重な見解を持っていたことによるであろう。
 マルクスは若き日に『共産党宣言』を高らかに発したにもかかわらず、終生自ら共産党を結成しようとはしなかったし、その種の政党に加入しようともしなかった。逆説的ではあるが、マルクスにとって「共産党」は存在しない。このことは、まさに『共産党宣言』の中でも、「共産党」という語は表題で使われているだけで、本文では複数形の「共産主義者(たち)」という語が専ら用いられていることに表れている。
 マルクスによれば、共産主義者は他の労働者党に比べて特殊な党でもなければ、特殊な原則を掲げてプロレタリア運動を型にはめようとするものでもなく、他のプロレタリア党からはただ二つの点で区別されるにすぎない。
 その一つは「プロレタリアの種々の国民的闘争において、国籍とは無関係な、プロレタリア階級全体の共通利益を強調し、貫徹する」こと(国際性)、今一つは「プロレタリア階級とブルジョワ階級の間の闘争が経過する種々の発展段階において常に運動全体の利益を代表する」こと(総代表性)である。
 このような「区別」からすれば、共産主義者の役割は「実践上は全諸国の労働者党の中で最も断固とした、常に推進的な部分」であること、「理論上はプロレタリア階級の他の集団にましてプロレタリア運動の条件、進行及び一般的結果を洞察する力量」を持つことにあるものとされる。
 従って、共産主義者マルクスにとっても、自ら共産主義政党を結成したり、それに加入したりすることよりも、諸国の労働運動を代表する国際労働運動に関わりつつ、各国労働運動を推進し、洞察する仕事のほうが優先順位が高いことになる。そのために、マルクスと労働者諸政党との関わりは間接的で、時として批判的なものとさえならざるを得なかったのである。

ドイツ社労党との批判的関わり
 マルクスの政党との関わりが最も特徴的な形で現れたのが、故国ドイツの労働者政党との関わりである。先述したように、ドイツでは1869年に社会民主労働者党が結成された後も、このアイゼナハ派とまだ優勢なラサール派の対立がしばらく続いたが、やがてラサール派の勢力が弱まった75年に両派合同の機運が生じ、改めて社会主義労働者党が結成された。
 この新党の綱領はその発祥地の名を取って「ゴータ綱領」と呼ばれたが、それはラサール派との合同という政治的成果を優先したため、まさにラサールの思想を強く反映した穏健な内容に仕上がっていた。そのため、これに目を通したマルクスは大いに不満であり、早速に批判論文「ドイツ労働者党綱領に対する評注」を執筆した。この論文は生前には公刊されなかったが、エンゲルスがマルクス死後の91年になって公表したものである。
 この論文はゴータ綱領の批判的分析を通して、今は亡きラサール―彼は64年、一女性をめぐって決闘死を遂げていた―の思想と対決する意義をも持っていた。
 1825年生まれでマルクスより一回り年下のラサールはベルリン大学出身の労働運動家で、やはりヘーゲル哲学に傾倒した一人であった。しかし彼の場合、マルクスとは違ってヘーゲル右派的立場から観念的歴史観に基づいて強力な国家を理想化していたため、当然にもプロレタリア革命には反対であり、ストライキなど労働者の経済闘争さえも否定したのである。
 代わって彼が提唱したのは、労働者の生活改善の手段としての国庫補助による生産協同組合という構想であった。そのため、彼は「アメとムチ」政策の鉄拳宰相ビスマルクにすら接近していく。こうしてラサールは今日ではむしろ主流を成しているとも言える保守的な右派労働運動の祖と言うべき人物でもあった。
 同時にラサールはまた、「平均的労賃は生命の維持と生殖のために一国民において習慣的に必要とされる不可欠の生計費に常に限定される」とする有名な「賃金鉄則」や、「労働者は労働の全収益を取得すべきである」とする労働収益論のような誤った、もしくはあいまいな命題を引っさげた「理論家」でもあった。
 生前のラサールはマルクスとも交流し、あの『政治経済学批判』の公刊に際しては出版社探しの労を取ってくれた「恩人」でもあったから、マルクスもラサール生前には彼を公然批判することを避けていたふしもあるが、ラサール死して十余年、なおドイツ労働界に残るラサールの影響を除去することは、まさに諸国の労働運動の中で最も断固たる推進的部分にして、他のプロレタリア集団にもまして強力な洞察力を持つべき共産主義者としての自らの使命と認識したことが、「全く唾棄すべき、また党の士気を阻喪させる綱領」(マルクス)に対する徹底批判の動機となったものであろう。

コメント

マルクス/レーニン小伝(連載第22回)

2012-09-28 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第4章 革命実践と死

(4)バクーニンとの対決

第一インターの分裂
 第一インターの内部ではパリ・コミューンの前後からマルクス・エンゲルスを支持するグループとロシア出自の無政府主義者ミハイル・バクーニンを支持するグループとの間での対立が激化していた。
 1814年生まれのバクーニンはロシア貴族の出自でマルクスとはほぼ同世代に当たり、マルクスもパリ時代から彼と交流を持っていた。バクーニンはまたマルクス‐エンゲルスの『共産党宣言』最初のロシア語訳者でもあった。
 しかし二人の性格と思想は大きく異なり、マルクスが冷静な理論派であり、社会革命としてのプロレタリア革命の条件・時機と方法を慎重に見極めようとするのに対し、バクーニンは農民やルンペン・プロレタリアートによる一揆的な革命による国家の廃止を追求する主意主義的な直接行動派であったから、二人のそりが合うはずもなかった。
 (2)で触れたバクーニンも参画した平和自由連盟への第一インターの参加をめぐる問題の背後にもマルクスとバクーニンの対立が見え隠れするが、第一インター内部では1869年のバーゼル大会でマルクス派とバクーニン派の対立が表面化した。そしてパリ・コミューン敗北後最初の大会となった第五回バーゼル大会では、ついにバクーニン派除名という事態となった。その理由はバクーニンらがセンターの支配または解体を策動しているというものであった。
 マルクスは総評議会の会合には熱心に出席していたが、大会となると多忙や病気等を理由に初回からすべて欠席していたにもかかわらず、第五回に限ってはエンゲルスとともに初めて大会に乗り込み、バクーニン派除名決議の採択を主導したのであった。バクーニンと対決する彼の意気込みが感じられる行動である。
 バクーニン派除名を決議した第五回大会は、同時に総評議会のニューヨーク移転をも決議した。これはバクーニン派除名による第一インターの内部分裂を新天地アメリカで回復せんとの狙いによるものであったが、運動中心のヨーロッパを離れたことは第一インターの事実上の活動停止を意味するものにほかならなかった。

バクーニン批判草稿
 バクーニンは第一インターを除名された直後の1873年、主著『国家と無政府』を公刊し、マルクス批判を展開した。これに対して、マルクスも74年から75年にかけて同書に全面的に反駁する草稿「バクーニンの著書『国家と無政府』摘要」を執筆したが、公刊するには至らなかった。しかし、この草稿は後期マルクスの国家理論・政治理論の到達点をかなり率直に示している点で重要である。
 バクーニンによるマルクス批判の中心は要するに、マルクス理論に従いプロレタリアートが革命によって支配階級の地位に就いても、国家を廃止しないならば必ず抑圧は残るだろうという点にあった。これは国家の廃止を説く無政府主義者バクーニンにとってはごく当然の問題意識であった。
 これに対するマルクスの回答は、プロレタリアートが支配階級となってもまだブルジョワ階級が闘争すべき相手として残存し、ブルジョワ的社会組織と経済的諸条件が存続している限りはそれらを力で除去せざるを得ず、そのために国家はなお必要であるというものであった。
 これは前節末尾で留保しておいた問題、すなわちマルクスが「プロレタリアート独裁」と言うときの「独裁」とはいかなる意味かという問題に関連しているが、その答えは革命後の反革命反動に対処するための、言わば「防御的独裁」ということになるであろう。
 かようなマルクスの認識はやはりパリ・コミューンの無残な敗北を目の当たりにした経験に基づくものであろうし、それはまた彼が執筆した第一インターの声明の中でも、全般に穏健的であったコミューンが実行した数少ない抑圧措置であるブルジョワ系新聞に対する発禁処分やパリ大司教以下人質60人余りに対する超法規的処刑をすら擁護してみせたゆえんでもあったであろう。
 しかし、「プロレタリアート独裁」は永遠に続くわけではない。マルクスは75年に書いた論文「ドイツ労働者党綱領に対する評注」(通称「ゴータ綱領批判」)ではさらに一歩を進め、「プロレタリアートの革命的独裁」を現存資本主義社会と将来の共産主義社会との間の「革命的転化の時期」に対応する「政治的な過渡期」の国家形態と規定している。

マルクス的国家論
 ではこうした「過渡期」を過ぎて共産主義社会に到達した暁に、国家はどうなるのか。これについては先のバクーニン批判草稿の中に一つの答えが示されている。
 それによれば、階級支配が消滅する共産主義社会では今日の政治的な意味での国家はなくなる。つまり、(一)統治機能は存在せず、(二)一般的機能の分担は何らの支配をも生じない実務上の問題となり、(三)選挙は今日のような政治的性格を完全に失う。そして共産主義的集団所有の下ではいわゆる人民の意志は消え失せ、協同組合の現実的な意志に席を譲るというのである。
 言い換えれば、共産主義社会では階級支配の道具としての政治国家は廃止される。しかしおよそ国家が廃止されるのでないことは「ゴータ綱領批判」でも「共産主義社会の未来の国家制度」という言い方がなされ、「共産主義社会では国家制度はいかなる変化をたどるであろうか?言い換えれば、そこでは現在の国家の諸機能に類似したいかなる社会的諸機能が残るであろうか?」という問いが立てられていることからも明らかである。この自問に対する自答の一端が先のバクーニン批判草稿に示されていたわけである。
 要するに政治国家としてのプロレタリアート独裁を通過した国家制度の到達点は、政治的性格を失った、言わば統治しない国家、しかも協同組合(生産協同組合)の現実的意志がそのまま国家意志でもあるような経済国家だというのがマルクスの所論である。このことは、若き日の『ドイツ・イデオロギー』の中ではより抽象的な形で「共産主義の編成は本質的に言って経済的なもの」と述べられていたところとも符合している。
 しばしばマルクスは、その信奉者からも、拒否者からも、階級廃絶に伴う国家の死滅を説いたと喧伝されてきたが、決してそうではない。正しくは、統治機能を有しない協同組合連合的国家の形成を説いたのである。もちろん、そのような政治国家ならぬ経済国家というものが果たして現実に存立し得るかどうかという問題はまた別である。

コメント

マルクス/レーニン小伝(連載第21回)

2012-09-20 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第4章 革命実践と死

(3)パリ・コミューンへの関与

普仏戦争への反対
 マルクスが第一インターにおける活動として最も大きな足跡を残したのは1871年のパリ・コミューンへの関与であったが、コミューンの前哨戦として前年に勃発した普仏戦争があった。第一インターは総評議会名で二つの声明を出して戦争に反対した。
 いずれの声明も実質的にマルクスの手になる論説形式の長い声明文である。彼はドイツとフランス双方の労働運動が参加する第一インターにあって両国の労働者階級が分断されないよう相当に腐心している。
 戦争の経緯からすると、スペイン王位継承問題をめぐる対立を契機に、フランスがプロイセン側の挑発に乗せられる形で始まった普仏戦争に関し、第一声明はこの戦争をプロイセンにとっての防衛戦ととらえたうえ、プロイセンがこの戦争をフランス侵略戦争に転化しようとすることに反対するようドイツ労働者階級に求めたものである。
 第二声明は実際にプロイセンがその優勢な軍事力をもってフランス侵略に出ようとする中で、フランス・プロイセン国境のアルザス・ロレーヌ地方のプロイセン併合に反対するようドイツの労働者階級に呼びかけるとともに、フランスの労働者階級に対してはプロイセン軍がパリに迫ろうとする中で、第二帝政崩壊後の新たな共和政(第三共和政)を直ちに倒そうとすることを時期尚早としていさめたのであった。
 こうしたマルクスの努力は実らず、フランスはプロイセンの軍門にくだり、ルイ・ボナパルトがプロイセン軍の捕虜となって崩壊した第二帝政に代わって成立した第三共和政政府は71年1月、プロイセンに降伏し、2月にはアルザス・ロレーヌ地方の大部分の割譲を含む屈辱的な仮講和条約をプロイセン中心に統一されたばかりのドイツ帝国との間で締結したのである。
 このような第三共和政の屈従的な外交姿勢に憤激したパリ民衆が3月に武装蜂起し、パリに一種の革命的解放区を設立した。これがパリ・コミューンである。

パリ・コミューンへの支援
 マルクスは、普仏戦争に関する第一インター第二声明でも触れていたように、フランスで成立したばかりの第三共和政に対する即時のプロレタリア革命には否定的であり、むしろこのブルジョワ共和政の下で生じ得る自由をプロレタリア革命へ向けた組織化のために利用することを要請していたのであった。彼は前章でも見た「革命の孵化理論」からしても、機の熟さない早まった革命的蜂起の非現実性を強く認識していたからである。
 しかし、パリ民衆は革命的行動に打って出てしまった。これはその経緯からすると、第三共和政の対独屈従外交への怒りに端を発しているので、純粋に「プロレタリア革命」と言い難い面もあった。しかしマルクスはパリ民衆の蜂起をプロレタリア革命とみなし、その結果成立したパリ・コミューン組織を「労働者階級の政府」と認めて支援に乗り出したのである。
 実際のところ、当時のフランス労働運動の中ではコミューンの6年前に没したプルードンの影響がかなり残っていた一方、マルクスの理論はまだ浸透していなかった。しかし、マルクスはコミューン関係者に対して手紙を通じて精力的に助言した。
 一方、コミューンが局地的な反乱に終わらないよう、マルクスはエンゲルスや次女ラウラの夫ポール・ラファルグらとも協力しながら、フランス西南地方でもパリ・コミューンに呼応した民衆蜂起を起こさせるべく種々の工作を行ったほか、他国の労働者階級に対してもパリ・コミューンとの連帯行動を取るよう手配もした。
 しかし、マルクスの当初の危惧と警告が正しかったことが間もなく証明された。パリ・コミューンは結局、ドイツ軍の支援を受けたフランス政府軍の武力鎮圧作戦の結果、約2万人とも言われる犠牲を出してわずか70日余りで崩壊し去ったのであった。

コミューンの敗北とその分析
 パリ・コミューンはこうしてブルジョワ支配体制の前に完全に敗北してしまった。マルクスは再び第一インター総評議会名で長文の声明を出し、コミューンの意義とその敗因について詳細な分析を加えた。
 「それ(コミューン)は本質的に労働者階級の政府であり、所有階級に対する生産階級の闘争の所産であり、その下で労働の経済的解放を達成し得べき、ついに発見された政治形態であった」という有名な命題を含むこの声明は、大きな犠牲を払ったコミューンに対する追悼の色調を帯びているために、コミューンへのやや過大な評価が散見されなくもないが、マルクスはコミューンの敗因分析を否定的な論難の形式で行うのでなく、むしろコミューンへのオマージュの形式で、現実にそうであったコミューンの姿と、本来そうあるべきであったコミューンの理念型とを交錯させながら論じようとしている。
 それとともに、マルクスはこの分析を通じて、『共産党宣言』をはじめ従来の著作では明らかにしてこなかったプロレタリア革命の結果生ずるべき政治制度の一端をも明らかにしたのである。
 マルクスのよく知られた、しかしよく誤解されるテーゼは「コミューンは議会制ではなく、執行権であって同時に立法権を兼ねた統治体であった」というものである。マルクスが声明とは別の機会にコミューンを「プロレタリアート独裁」と規定したことから、マルクスは議会制民主主義を否定する共産党独裁政治の支持者であるというような誤解もいまだに根強い。
 たしかにマルクスはお喋りの府にすぎない議会を称賛する単純な議会制の支持者ではなかったが、しかし代議制を否定するものでなかったことは、先の命題のもう少し後のところで、「各地方の農村コミューンは中心都市における代議員会議によってその共同事務を処理すべきであり、かつこれらの地方会議がさらにパリにおける全国代議員会議に代議員を送るべき」云々と複選制に基づく代議政体のあり方に言及していることで判明する。
 しかも、この代議制は代議員が選挙人によっていつでもリコールされ得る命令委任を採るべきものとされている。そして司法官を含む公務員も選挙され、かつリコールされ得るものでなければならない。そのうえ常備軍は廃止される。
 こうしてみれば、マルクスの「プロレタリアート独裁」とは、議会制民主主義よりもずっと急進的な民主主義体制を予定していたとさえ言えるのであり、この「独裁」という語は通常意味されるものとは別様に解されなければならない。これについては、バクーニンのマルクス批判論とも絡めて次節で改めて検討することにしたい。

コメント

マルクス/レーニン小伝(連載第20回)

2012-09-19 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第4章 革命実践と死

(2)国際労働運動への参画

国際労働者協会の創立
 1848年の連続革命が挫折した後は、革命運動にとって「冬の時代」が続く。そうした中でマルクスらの共産主義者同盟も潰されてしまったのであった。
 共産主義者同盟を失ったマルクスの革命実践にも10年以上のブランクが空くが、1864年になって転機が訪れる。この頃ヨーロッパ労働運動の国際化の機運が生じ、同年9月にロンドンで開かれた国際労働者協会(第一インターナショナル:以下、「第一インター」という)の創立集会に招かれ傍聴していたマルクスは勝手に委員に選出されてしまったのだ。しかも彼は協会創立宣言と規約を起草する小委員会の委員を委ねられることになった。
 この第一インターは10年前の共産主義者同盟とは異なり、革命運動というよりまさに労働運動であった。しかし「冬の時代」にあって共産主義的な運動が各国政府の弾圧を回避しながら存続していくためには、このような穏健化された形態を取るよりほかになかった。
 それでもマルクスは委任された創立宣言文や規約条項を通じ、大要「労働者は政治権力の獲得を大きな責務とし、もって労働者階級を解放し、階級支配を根絶するという究極目標を、自らの手で勝ち取らなければならない」と述べ、改めてプロレタリア革命のテーゼを繰り返している。
 第一インターの第一回大会は66年にジュネーブで開かれた。この大会は第一インターのわずか十余年の命脈の中で五度開催された大会の中で最も盛況で、組織のあり方や運動方針といった当面の問題から、労働時間、協同組合、労働組合、常備軍といった政治経済上の諸問題に至るまで様々なテーマで活発な討議が行われ、論争家マルクス好みの大会であったはずだが、彼はちょうど『資本論』の執筆が最終段階に達していた折りで出席することができなかった。
 しかしマルクスは翌年、この大会での討議事項に対応する自己の見解を反映させた第一インター中央評議会(後に総評議会)代議員への指示文書を発表している。
 その中で特に注目すべきは労働組合の役割についての指摘である。彼は労働組合が賃金増と労働時間短縮のために果たしてきた役割を高く評価しつつ、「賃労働と資本支配の制度そのものを廃止するために組織された道具」としての労働組合の重要性を指摘し、労働組合が賃金奴隷制そのものに反対して行動する自己の力を十分に理解し、労働者階級の完全な解放という広大な目的のために、労働者階級の組織化の中心として行動することを学ばなければならないと述べるのである。要するに、彼は労働組合による賃上げ・時短闘争のような個別的闘争を重視するとともに、労働組合をプロレタリア革命のための中心的組織たるべきものとも認識していたのである。
 マルクスは第一回大会前年に第一インターで行った講演『賃金、価格及び利潤』の中ではもっと端的な標語的表現でこう言っている。「かれら(労働者階級)は、「公正な一日の労働に対する公正な一日の賃金!」という保守的な標語の代わりに「賃金制度の廃止!」という革命的なスローガンをかれらの旗に書き記さなければならない」と。そして同じ講演の結びでも、「それ(労組)が現行制度の結果に対するゲリラ戦に専念してそれと同時に現行制度を変革しようとしないならば、その組織された力を労働者階級の究極的な解放すなわち賃金制度の究極的な廃止のためのテコとして利用しないならば、一般的に失敗するであろう」と警告している。
 その後の各国労組はマルクスのこの警告を無視し、それどころかプロレタリア革命を自己否定さえして、まさしく「一般的に失敗」したのであったが、資本側から見ればそれは労働組合を完全に体制内化することに成功したことを意味するだろう。

平和自由連盟との対決
 初期の第一インターにおけるマルクスの活動で注目されるのは、ヴィクトル・ユゴーやジュゼッペ・ガリバルディ、ミハイル・バクーニンといったそうそうたるメンバーが参加して1867年にジュネーブで設立された国際組織「平和自由連盟」(以下、単に「連盟」という)との対決である。
 この組織の目的は「諸国民間の政治的・経済的条件を決定すること、特にヨーロッパ合衆国を樹立すること」にあるとされていた。参加メンバーを見ると、人道主義の作家ユゴーに、イタリア統一運動の指導者ガリバルディ、無政府主義の巨頭バクーニンと著名ではあるが雑多な顔ぶれにふさわしいあいまいな組織であり、第一インター諸支部やマルクスにも参加を呼びかけていた。
 しかし首尾一貫性を重視するマルクスがこのようなヌエ的運動組織に手を出すことはあり得なかった。彼は67年8月、第一インター総評議会での講演で、国際労働者協会の大会はそれ自体が平和大会にほかならないこと、それは諸国の労働者階級の団結こそ究極的な国際間の戦争を不可能とするに違いないからであること、よって労使関係を変革する事業に手を貸そうとしない者は世界平和の真の条件を無視するものであることなどを指摘し、「総評議会代議員は連盟の大会に公式に参加してはならず、国際労働者協会の大会において連盟の大会への公式参加を支持する動議が出されたときはこれに反対するよう指示する」との決定案を提出し、総評議会は全会一致でこれを採択したのであった(ただし、67年のローザンヌ大会はこの総評議会決定を無視して連盟への参加を決議した)。
 こうした対応に見られるように、マルクスは現実の階級構造を無視した幻想的な「諸国民」の連帯ではなく、国境を越えたプロレタリアートの団結こそが世界平和の真の条件であると確信していたのである。
 時代下って今日、階級構造を無視した連盟流の「平和運動」はなお盛んである。しかも連盟が構想した「ヨーロッパ合衆国」はヨーロッパ連合(EU)という中途半端な形態で実現されつつある。しかし、第一インターの後裔と目される国際労働運動はもはや存在していない。従って―とマルクスなら言うであろう―、真の世界平和への道のりはなお遠いのである。

コメント

マルクス/レーニン小伝(連載第19回)

2012-09-14 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 カール・マルクス

第4章 革命実践と死

マルクスは、何よりもまず革命家でした。
―盟友フリードリヒ・エンゲルス


(1)共産主義者同盟の活動

1848年「革命の年」
 ここで時期を遡って、マルクスが理論的活動と不可分一体のものとして重視した革命的実践活動の軌跡を追ってみよう。
 第2章でも見たとおり、マルクスが初めて革命的実践と呼び得るものに関わったのは最初の亡命地ブリュッセルでの共産主義者同盟の活動であったが、1848年のフランス2月革命を機にブリュッセルを追われると、パリを経てベルリン3月革命後のプロイセンへ戻り、ケルンを拠点に労働者組織の結成に尽力する。
 マルクスとエンゲルスはつとに『共産党宣言』の中で、ドイツにおける革命の展望として、立ち遅れた半封建的なドイツではプロレタリア革命に先行してまずブルジョワ革命がなくてはならないと論じていた。そしてこの「プロレタリア革命の前奏曲」たるブルジョワ革命の局面では、共産主義者はプロレタリアートを支援しつつ、革命を主導する進歩的ブルジョワジーとも連携するが、同時にブルジョワ革命成就後は一転、プロレタリアートがブルジョワジーに対する闘争を開始することができるように労働者に階級対立の意識を生じさせる努力をするというのである。
 マルクスはこれに関連して、共産主義者同盟員へ向けた呼びかけの中で、ブルジョワ革命後に「新しい公式の諸政府と並行して・・・・独自の革命的な労働者諸政府を打ち立て(る)」ことを求めている。これはいわゆる並行権力論であり、後にロシア革命時のいわゆるソヴィエト(評議会)で実践されたのであるが、1848年のドイツではそもそもブルジョワ革命自体が不首尾に終わってしまったのである。
 こうした結果に至ったのは、マルクスによれば、革命の一つの所産でもあったフランクフルト国民議会が空疎な憲法論議に明け暮れ、またプロイセン・ブルジョワジーが反革命反動らと手を組んだせいであった。
 一方、連続革命の大元フランスでは4月の総選挙でプチ・ブルジョワと農民層の支持を受けたブルジョワが勝利し第二共和政を開始すると、社会主義者は排除され、すでに単なる失業対策事業と化していた国立工場も閉鎖された。怒ったパリの労働者による6月蜂起―マルクスはこれをプロレタリア革命と認め、『1848年6月の敗北』(後に『フランスにおける階級闘争』として改題公刊)で分析した―も政府軍によって鎮圧された。これを機に反動化が進み、ルイ・ボナパルトの独裁体制・第二帝政へとなだれ込んでいくのであった。

弾圧と分裂・解散
 前章でも先取りしたように、フランスの反動化を契機として周辺諸国の革命も順次挫折していき、マルクスのいたケルンでも共産主義者同盟関係者の検挙に続いて、マルクスにも退去命令が出たため、彼はパリを経由してロンドンへの亡命を余儀なくされたのであった。
 ロンドンは一時マルクスら亡命者のたまり場のようになった。そこで、マルクスとエンゲルスは亡命によって廃刊せざるを得なかった『新ライン新聞』の後継的な新聞『新ライン新聞 政治経済評論』をハンブルグで創刊するとともに、共産主義者同盟の再建に着手した。しかし資金難に加え、同盟の内部分裂も激しくなった。
 この頃、共産主義者同盟の本部はパリからケルンへ移っていたが、1851年中旬から6月にかけて、まだケルンに残留して活動していた有力メンバーが一斉逮捕・起訴された事件―マルクスはこの一件をパンフレット『ケルン共産党裁判の真相』にまとめ、53年にバーゼルとボストンで匿名出版した―を機に事実上壊滅状態に陥ってしまった。こうした経緯にかんがみ、同盟存続の意義は消滅したと判断したマルクスの提案に基づき、52年11月、同盟は解散を宣言した。設立からわずか5年あまりの命脈であった。
 結局のところ、共産主義者同盟も、その綱領文書であったマルクス‐エンゲルスの『共産党宣言』も、1848年の連続革命にはほとんど影響を及ぼさなかったし、その後も組織力の弱さから同盟はプロイセン当局の一撃の下に壊滅してしまったのである。それほどに当時の彼らはマイナーな存在にすぎなかった。

コメント

マルクス/レーニン小伝(連載第18回)

2012-09-07 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第3章 『資本論』の誕生

(4)主著『資本論』(続き)

『資本論』第1巻の意義
 エンゲルスは主著『空想から科学へ』の中でマルクス最大の「発見」として唯物史観と剰余価値とを挙げているが、このうち特に剰余価値論を中心的に打ち出したのが『資本論』第1巻(以下、単に『資本論』という)であった。
 エンゲルスによれば、剰余価値こそ資本主義生産様式とそれによって生み出されたブルジョワ社会の特殊な運動法則にほかならないのであり、マルクス理論を「科学」たらしめる基本概念とされる。しかし結局のところ、この概念はいわゆる「マルクス経済学」の世界を除いては正規の経済学概念として受容されることはなかった。なぜであろうか。
 マルクスが「発見」したとされる剰余価値とは、彼の経済学研究の出発点をなす『経済学・哲学草稿』ではごく常識的に資本による労賃節約として説明されていたものを、より「科学的」に突き詰めて、資本は労働者をしてその生活費(及び繁殖費)をまかなうための必要労働分(例えば4時間労働分)を超えて働かせること(例えばさらなる4時間労働分)を通じて、すなわち剰余労働によって生み出された剰余価値を搾取していると説明し直したものであった。
 この場合、資本としては労働者に必要労働と剰余労働合わせて8時間労働を課しながら実際上は必要労働分の4時間労働相当分の賃金しか支払わず、残り4時間分については実質上タダ働きを強いている。よって、この設例では搾取率(剰余価値率)は四分の四すなわち100パーセントという丸取り的搾取が行われていることになる。言い換えれば、労働力商品の買主たる資本家はこの労働力商品本来の価値(4時間労働分の賃金相当額)を超えて酷使しているのである。
 こうした場合も、通常の資本家(経営者)の意識の上では賃金を抑えて人件費を節約しているにすぎないのであるが、マルクスはこれを「科学的」に解析して、資本はより積極的に剰余価値の生産を基本として回っていることを「発見」したと信じたのである。『資本論』の中で、マルクスは「資本の一般的な必然的傾向性はその現象形態とは区別されなければならない」と指摘する。
 マルクスのこのような方法論は、あたかも現象的には不可視の深層構造を学理的な解析によって析出してみせようとする後の「構造主義」の先駆けのようでもあるが、まさにそこに死角があった。彼が「発見」したと信じたものは、実は錯覚であった―そう言って悪ければ学理的なオーバーランであった。
 たしかに労働力は常に資本によって安く買い叩かれるが、それは人件費の節約という経営実務家の経験的意識で説明したほうが真実に近いのである。ただ、節約によってそこに消極的な価値(利得)が生じることは事実であるが、これを積極的な価値(利得)として「発見」してしまったところにマルクスのオーバーランがあったのである。
 資本は搾取によって積極的に剰余価値を生産し、その一部を蓄積することで自己を増殖するというよりは、搾取による消極的な節約利得が十分留保されるような価格で商品を売ること―また他の必要経費をも節約すること―で自己を維持・拡大していくのである。
 では、この主流派経済学においてはほとんど顧みられることのない剰余価値の概念は全く“無価値”なのかと言えば、決してそうではない。この概念は資本と労働の関係を単に経済的なものから政治的なものへと変換するうえで有効なのであり、その意味では剰余価値は政治学的概念であると言ってもよい。
 実際、マルクスはまさに『資本論』の中で「資本は自己の労働者に対する自己の専制を、他のところではブルジョワジーがあれほどに愛好する分権もそれ以上に愛好する代議制もなしに、私的法律として自分勝手に定式化している」と指摘しているし、より大きくは「アジアやエジプトの諸王やエトルリアの神政官などの権力は、近代社会では資本家の手に移っているのであって、それは彼が単独の資本家として登場するか、それとも株式会社におけるように結合資本家として登場するかにはかかわらない」とも述べて、資本(家)と労働(者)の関係をまさに政治的にとらえようとしている。
 こういう一見独特な把握の仕方の背後には、政治的なものの出発点を労働の場における階級闘争に置こうとするマルクスの視座が控えていることは容易に見て取れるであろう。剰余価値、あるいはもっと端的に搾取は、そうした階級闘争の動因の擬似経済学的な表現にすぎないとさえ言えるのである。
 むしろ『資本論』の社会科学的な真の貢献は剰余価値論よりも、それが労働経済学ないし労働社会学の先駆けをなした点にこそあるだろう。実際、この本の表題は『労働論』と改題してもおかしくないほど、「資本」と同等かそれ以上に「労働」を主題としている。そしてマルクスが『資本論』を通じて確立した「労働」そのものと区別された商品としての「労働力」、そしてその労動力商品の売り手たる労働者と買い手たる資本家が相対する「労働市場」という想定などは、今日マルクスに反対したり、完全に無視する論者によっても普通に用いられているところである。
 いずれにせよ『資本論』はマルクスの主著でありながら、前著『政治経済学批判』と同様に難解であり、一般向けの本とは言えない。そのうえに、第2巻以降は他人が編集しての死後出版となった。そのために後世「マルクス主義者」を自称した人々の間でもいったいどれだけ人がこの『資本論』全巻を細部まで読み込んで完全に理解し得たか甚だ疑わしいのである。
 おそらく『資本論』はまだ完全に読み込まれてはいない。その中にはまだ十分に掘り尽くされていない可能性の原石が埋まっていると推定されるのである。

コメント

マルクス/レーニン小伝(連載第17回)

2012-09-06 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第3章 『資本論』の誕生

(4)主著『資本論』

誕生の経緯
 先に述べたように、マルクスが1859年に出した自信作『政治経済学批判』は売れなかった。「出版の継続は第一分冊の売れ行きにかかっている」。出版直前の知人宛て書簡でマルクスはそう言っていた。商品交換経済を批判的に解析しようというマルクスが商品としての本の売れ行きに将来をかけなければならない皮肉もまた、資本主義的現実なのであった。
 売れなかった大きな理由の一つはマルクスが大学・学界に属する講壇経済学者でなかったことにある。元来マルクスは経済学専攻者でなく、経済学に関しては門外漢であったから、彼を「経済学者」と呼ぶのは適切でない。実際、先に見たように、彼の「政治経済学批判」も決して新しい経済学体系の構想ではなかったのである。講壇経済学者たちの「黙殺」も当然であった。
 しかし、それ以上にマルクスを打ちのめしたのは、彼が最も伝えたかった同志たちの間でも理解されなかったことである。彼は出版後の知人宛て書簡の中でそのことを恨めしげに書いている。大学・学界に属する権威筋の学者でなく、プロレタリア革命の理論家であるマルクスが自身の理論を最も伝えたかったプロレタリアートに届かなかったことは大きなショックであった。
 その理由はもちろん悪意による「黙殺」ではなく、マルクス理論の難解さにあった。そしてこの難解さゆえの無理解は、後に主著『資本論』ではより成功を収めた後もついて回る―今日に至るまで―マルクス的事象なのであった。
 このような事情から、マルクスは当初の全六部構成の刊行計画を見直さざるを得なくなり、資本に関する第1部のみにしぼって改めてまとめ直すこととし、さらに8年の歳月をかけて研究を進めていった。その間、彼は国際労働者協会(第一インター)の結成に関わり、新たな政治的実践を始めたほか、フランスの第二帝政(ルイ・ナポレオン政権)のスパイであったカール・フォークトなる人物による中傷宣伝への対応にも追われるなどしたが、ついに1867年、新たな企画による『資本論』第1巻が世に出ることになった。
 しかし予定されていた第2巻以降は結局、マルクス生前に刊行されることはなかった。第2、第3巻はマルクスの遺稿を整理・編集したエンゲルスの手でマルクスの死後公刊され、第4巻はエンゲルスの手も及ばず、20世紀に入ってエンゲルス晩年の弟子であったカール・カウツキーによって別本(邦題『剰余価値学説史』)として編集・公刊された。

コメント

マルクス/レーニン小伝(連載第16回)

2012-08-30 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第3章 『資本論』の誕生

(3)経済学研究の道(続き)

『政治経済学批判』の完成
 こうしてどん底の中での研究の結果、1859年に公刊されたのが『政治経済学批判』(以下、単に『批判』という)である。マルクス41歳。大英博物館で研究を始めてから9年の歳月が経っていた。そのわりに本文170ページと薄手の本になったのは、元来マルクスは全六部構成という壮大な大著を企画しており、『批判』はそのうちの第一分冊にすぎなかったためである。
 持ち込み原稿のうえ内容も難解で出版社探しは容易でなかったが、当時マルクス、エンゲルスと交流があり、後にドイツ労働者総同盟を結成するフェルディナント・ラサールの仲介でベルリンの出版社から初版千部で刊行される運びとなった。
 しかし、この自信作は著者の期待に反してほとんど売れず、マルクス生前には初版のみで絶版となってしまった。そのため、予定していた続巻の刊行も断念せざるを得なかった。ただ、『批判』の内容はその8年後にプランを変えて出した主著『資本論』第1巻の中により練り上げられた形で収録されたため、今日では『批判』はその本文よりも序言のほうに重要な意義が認められている。というのも、序言にはマルクスの経済学研究の理論性格と基本視座が自身の言葉で簡潔に要約紹介されているからである。
 そうした序言の概要をも参照しながら中期のマルクスが到達した経済理論の性格を考えると、それは『政治経済学』という表題―同じ題が『資本論』では副題として使われている―が如実に示すように、古典派経済学(政治経済学)に代替する新たな経済学体系なのではなく、資本主義生産様式とそれに照応する経済理論である古典派経済学(政治経済学)への体系的批判理論であった。
 従って、いわゆる「マルクス経済学」なるものは幻想である―そう言って悪ければそれは後世の人々がマルクスの名を冠して構築したマルクスその人とは無関係の学問であると言って過言でない。ちょうど政治路線としての「マルクス主義」がマルクスその人とは無関係であったように。
 一方、このマルクス独自の「政治経済学批判」は脱歴史化された理論経済学でもなく、その基底には先行的に確立してあった唯物史観が埋め込まれた歴史理論でもあった。それが『批判』序言の中ではやや図式化された形で、有名なアジア的→古代的→封建的→近代ブルジョワ的生産様式という発展段階論、さらに土台としての経済的構造の上に法的かつ経済的な上部構造が構築されるとする社会構造(構制)論として凝縮されている。
 同時にまた、この「政治経済学批判」は単なる経済理論に終始せず、社会革命の条件を探る社会理論をも内包している。すなわち社会の物質的生産諸力がある発展段階で既存の生産諸関係と矛盾を来たし始めた時点で社会革命の時期が始まる。逆言すれば、一つの社会構成体は全生産諸力がその中で完全に発展し尽くされない限り没落することはない。なおかつ新たな高度の生産諸関係はその物質的な存在諸条件が既存社会の胎内で孵化し切らない間は旧来の社会構成体に取って代わることはない。
 この「革命の孵化理論」と呼ぶべき社会理論は公式的な唯物史観テーゼの影に隠れてあまり注目されてこなかったが、これはマルクスにおける「革命の科学」と呼んでもよい「政治経済学批判」の重要な柱を成している。
 このように中期のマルクスが到達した「政治経済学批判」は包括的かつ複合的な社会批判理論として姿を現すのである。

コメント

マルクス/レーニン小伝(連載第15回)

2012-08-29 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第3章 『資本論』の誕生

(3)経済学研究の道

漂流からロンドン定住へ
 マルクスはプルードン批判書『哲学の貧困』を公刊した後、そこで展開した経済学的諸論点をさらに練り上げる研究へ進むはずであったが、それを中断せざるを得ない事情に直面する。マルクスとエンゲルスが『共産党宣言』を公刊した1848年、フランスでルイ・フィリップの7月王政が倒れる2月革命が勃発したのだ。
 これは急進的なブルジョワ革命であって、プロレタリア革命ではなかったが、臨時政府には社会主義者のルイ・ブランや労働者代表も参画し、国立工場の設置など部分的に社会主義的施策にも踏み込んだ点では画期的であった。2月革命に引き続いて同年3月にはウィーンとベルリンでも革命が起き(3月革命)、その余波はベーメン、ハンガリーなど東欧を含めた東西ヨーロッパに広く及び「連続革命」の様相を呈した。
 そうした中、フランス臨時政府はまだブリュッセルにいたマルクスにも招請状を送ってきたが、隣国からの革命の波及を恐れたベルギー当局は3月、マルクスに24時間以内の国外退去を命じ、マルクス夫妻を拘束したうえフランス国境へ連行・追放した。
 こうしてマルクスは再びパリへ戻るのであるが、ベルリンの3月革命を受けて故国へ帰国する決心をしたマルクスは間もなくケルンへ移る。次章で詳しく述べるように、マルクスはドイツの3月革命をプロレタリア革命に先立つブルジョワ革命ととらえ、これをプロレタリア革命へ高めるべく助長せんとしていたのである。そこで彼は共産主義者同盟の仲間たちと新たに『新ライン新聞』を創刊して理論的活動拠点とするとともに、労働者組織の結成にも尽力する。
 しかしフランス2月革命が社会主義化を恐れるブルジョワジーの反動化によって挫折すると、周辺諸国の革命も連鎖的に挫折・収束していった。ケルンでも48年7月以降、共産主義者同盟メンバーの逮捕が相次ぎ、49年5月にはマルクスにも退去命令が出された。そこでマルクスは再びパリへ舞い戻るが、前年12月に大統領に就任していたルイ・ボナパルト(ナポレオン・ボナパルトの甥)の反動体制に変わっていたフランスにもはや彼の居場所はなかった。結局マルクスは49年8月、比較的自由で多くの亡命者を受け入れていた英国のロンドンへの亡命を余儀なくされるのである。

どん底生活と精力的研究
 ロンドンに定着したマルクスが自由と引き換えに直面したのは、貧困であった。妻イェニーの言葉によると、とりわけロンドン生活初期の1850年から53年にかけては「絶えず心を蝕む不安と、あらゆる種類の窮乏、本当の貧乏が続いた」時期であった。
 ちなみにマルクス夫妻は50年から55年までの間に次男ハインリヒ、三女フランチェスカ、長男エドガーの三児を相次いで病気で失っている。いかに子どもの死亡率が全般に高かった時代とはいえ、これだけの短期間に三児を失ったところには、借金の取立てに追われ、治療代にも事欠いたマルクス一家の苦境が示されている。
 しかし同時に、マルクスの経済学研究が大きく前進したのも、このどん底生活時代であった。50年には共産主義者同盟も弾圧の中で分裂し事実上活動を停止していたから、1850年代のマルクスは政治的実践からはひとまず離れ、懸案の研究に時間をさくことができたのだった。彼は当時世界最大級の蔵書を擁していた大英博物館図書室を研究室代わりに、膨大な先行著作・原資料を読み込み、研究ノートを作成していく。
 一方、スイス亡命を経て、同じくロンドンへ亡命してきたエンゲルスは間もなくマンチェスターへ移り、父親が経営する商会で働きながらマルクスを支えるようになった。彼はマルクスが生活の足しにするため51年から寄稿を始めた米国の新聞『ニューヨーク・トリビューン』へ送るマルクス名義の原稿の相当部分を代筆さえしてマルクスが本業の研究に十分時間をさけるように配慮したのだった。

コメント

マルクス/レーニン小伝(連載第14回)

2012-08-23 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第3章 『資本論』の誕生

(2)プルードンとの対決

プルードンとの出会い
 マルクスが経済学研究をいっそう進展させるに当たっては、フランスの社会主義者ピエール・ジョセフ・プルードンとの出会いが重要な契機となっている。
 1809年生まれでマルクスよりも一回り年長のプルードンは貧困家庭に生まれ、印刷工として生計を立てながら独学でフリーランスの反体制的な著述家となり、後には投獄も経験した政治的闘士でもあった。マルクスのパリ遊学時代には「財産、それは盗みだ」のセリフで有名な主著『財産とは何か』がセンセーションを呼び、プルードンはフランスを中心に社会評論家として声望を持っていた。
 彼はまた論文「政府とは何か」の中で、「政府に統治されるとは、そうするだけの権利も見識も美徳もない連中によって監視され、検分され、スパイされ、指示され、法的に強制され、番号化され、規制され、登録され、教化され、説教され、統制され、調査され、評価され、査定され、検閲されることの謂いである」と論じるアナーキズムの祖でもあった。
 当初プルードンの『財産とは何か』に感銘を受けた一人であったマルクスはパリでプルードンの知遇を得て交流を深め、特に経済問題について徹底した意見交換をしたという。
 しかし、この出会いはエンゲルスとのそれのようにはいかなかった。プルードンとマルクスの間には大きな溝があったからである。面白いことに、裕福な有産階級出身のエリート・マルクスがすでにプロレタリアートによる人間解放という視座を引っ提げていたのに対し、無産階級出身の独学者プルードンにとっては皆が平等に小財産を持ち、互いに助け合いながら自治的に社会を営む連合主義が理想なのであった。これでは二人の息は合わないはずであった。

『貧困の哲学』vs.『哲学の貧困』
 マルクスとの理論的相違の深さを十分に認識していなかったプルードンは1846年に出した大著『経済的諸矛盾の体系、あるいは貧困の哲学』(以下、『貧困の哲学』という)を前年ブリュッセルに亡命していたマルクスに早速送付し、称賛を期待しつつ批評を求めた。
 この本は古典派経済学と既成の社会主義理論についてプルードンなりに体系的な批判を加えたつもりのものであったが、すでにプルードンに批判的になっていたマルクスはこれを好機ととらえ、翌47年、全面的な批判の書『哲学の貧困‐プルードンの貧困の哲学に対する回答』をフランス語で公刊したのである。
 ちなみに、本のタイトル『哲学の貧困』は言うまでもなくプルードンの書『貧困の哲学』を逆さまにもじったもので、多くの友人を離反させてしまうマルクスの皮肉っぽいポレミカルな性格がよく示されている。
 この本におけるマルクスのプルードン批判の骨子は大きく二つあり、一つはプルードンがリカードウを生半可に解釈して導き出した「一定量の労働は同一量の労働によって作られた生産物の価値に等しい」との命題への批判である。
 マルクスによれば、この命題は全くの誤謬である。労働はそれ自体商品であるから、商品としての労働を生産するのに要する労働時間によってその価値が測られるのであり、その労働時間とは労働の不断の維持のため、すなわち労働者を生活させ、その子孫を繁殖させ得るために不可欠な物品を生産するのに必要な労働時間のことにほかならないという。
 従って、この労働時間によって測られた価値としての賃金と、この賃金の下で労働者によって生産された物の価値とは等しくならない。それどころか、労働の自然価格は賃金の最低限をなしている。裏を返せば、労働者は賃金に見合った価値以上の価値を創造させられている。
 こうしたマルクスの「回答」は、価値を創造する人間の肉体的・精神的力量としての「労働力」と価値を創造する働きそのものである「労働」とが混同されていたり、労働(力)の自然(通常)価値は最低賃金に等しいといった誤謬命題にとらわれていたりする理論的な欠陥をなお免れていないものの、「疎外」という倫理学的概念を科学的とされる「剰余価値」理論へ練り上げていくための手がかりがすでに芽生えている。
 マルクスのプルードン批判のもう一つの論点は、プルードンがヘーゲル弁証法の貧弱な援用を通じて―この点こそが本のタイトル『哲学の貧困』の由来である―、現存社会の悪い面を除去し良い面を助長するといった社会改良主義にとどまろうとする不徹底さへの批判である。
 これに対して、マルクスは未公刊に終わった『ドイツ・イデオロギー』で展開していた唯物史観を改めて対置し、プロレタリア革命の必然性を論じる。彼によれば、プルードンは科学者としてブルジョワとプロレタリアの上を天駆けようと欲しているが、実際は資本と労働の間を、経済学と共産主義の間を絶えず揺れ動くプチ・ブルジョワにすぎない。
 最後に、革命前夜における社会科学の最後の言葉として、「戦闘か然らずんば死か、血みどろの闘争か然らずんば無か」というフランスのフェミニスト作家ジョルジュ・サンド―マルクスとも交流があった―の名言を引いて力強く締めくくられるこの書はマルクスにとって初の経済理論書であり、彼の本格的な経済学研究の出発点に位置づけられる作品となったのである。

コメント

マルクス/レーニン小伝(連載第13回)

2012-08-22 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 カール・マルクス

第3章 『資本論』の誕生

この年と次の二年間(注:1850年‐53年)は、私どもにとって外的に数々の極めて大きな心配が襲ってきた時期で、たえず心を蝕む不安と、あらゆる種類の窮乏、本当の貧乏が続いた。
―妻イェニー・マルクス


(1)初期の経済学研究

『経済学・哲学草稿』
 前章でも触れたように、パリ遊学時代にエンゲルスの論文「国民経済学批判大綱」に接したマルクスは経済学研究の重要性を認識し、以後スミスやリカードウを中心に古典派経済学の研究を鋭意進めていく。その予備的な成果が今日『経済学・哲学草稿』(以下、単に『草稿』という)として公刊されている初期の著作に収められている。
 これは経済学及び哲学にわたる種々の主題を試論的に展開するまさに草稿であって、マルクス生前には公刊されず、1932年になってソ連の研究所の手で編集・公刊されたものであるから、二次性と断片性を免れないのであるが、この草稿には青年マルクスの思想的キーワードと目される「疎外」の概念が鮮明な形で現れる点で、ヒューマニスト・マルクスの到達点を画する作品とみなされている。
 この「疎外」概念は、マルクスの最初の思想的転回点となった論文「ユダヤ人問題に寄せて」の中で、貨幣の本質に絡めて「貨幣は人間の労働と人間の現存在とが人間から疎外されたものであり、この疎遠な存在が人間を支配し、人間はそれを礼拝する」という形で提示されていた。
 『草稿』にあっては、このテーゼを資本主義社会における賃労働全般にまで拡大し、「疎外された労働」という定式化を試みている。それはまだ十分に分節化されていないため、熟した定式ではないが、要するに資本主義の下では労働者は他人の利潤追求の道具として他人に属する物の生産に従事することを個人的な生活、ひいては生命を保続するための手段とせざるを得ないことによって、共同存在という人間性の本質を喪失させられてしまうという批判理論である。
 これを労働者を雇用する資本の側から見れば、労働者も他の商品と同様に、その価値が需要と供給によって変動する一つの商品とみなされ、労働者が死滅してしまうことのないようかれらの生活のために支払われるべき労賃は他の生産手段の維持・修繕等に支出される費用とともに、節約すべき必要経費であるにすぎないという。
 このような概念規定には、後にマルクスが仕上げることになる有名な「剰余価値」の概念とその論理的前提となる労働力=商品論のモチーフがすでに認められるが、『草稿』の段階ではまだヒューマニスティックな倫理学的把握を出ておらず、後年のマルクスが強調する「科学的」把握には到達していなかった。
 しかし、これ以降本格的に推進されるマルクスの経済学研究は、「疎外」概念を―マルクスによれば科学的に―突き詰めていくことに全力が傾注されると言ってよいのである。その際、ヒューマニズムは彼の経済学研究の通奏低音として鳴り響き続ける。そういう意味ではマルクスの「科学」とは通常言われるような歴史の科学でも経済の科学でもなく、人間の科学(人間科学)となるはずである。

コメント

マルクス/レーニン小伝(連載第12回)

2012-08-17 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第2章 共産主義者への道

(5)『共産党宣言』まで(続き)

『共産党宣言』発表
 『共産党宣言』(以下、単に『宣言』という)はエンゲルスが先行して書いていた未公刊のQ&A形式の小論「共産主義の諸原理」をベースとしつつマルクスが仕上げたもので、完成したのはようやく1848年1月のことであった。
 これは前回見た共産主義者同盟の「理論的にして実践的な綱領」として生まれたものだが、マルクス‐エンゲルスの意図をもはるかに越え、20世紀に入って世界各国で結成された共産党の綱領にも取り込まれた。
 しかし、この『宣言』に対しては、共産主義に肯定的な者も否定的な者も大きな誤解を共有し合ってきたし、おそらく今でもそうである。その誤解とは、この書は共産主義とは何かを明示する綱領文書だという誤解である。
 ところが、実際には『宣言』が第一章を中心に多くのページを費やすのは、唯物史観に立った資本主義の歴史―未来完了態を含む―なのである。特に「自己の生産物の販路を常にますます拡大しようとする欲望に駆り立てられて、ブルジョワ階級は全地球を駆けめぐる。かれらはどんな所にも巣を作り、どんな所をも開拓し、どんな所とも関係を結ばねばならない」で始まるくだりは、『宣言』が発表された19世紀中頃にはまだ英国を中心にほぼ西欧及びその植民地に限られていた国際資本主義の全地球規模化(グローバリゼーション)という今日的現象を未来完了的に予示した点で重要な意味を持つ。少し長く小さな文字になるが、続きの部分を引用してみよう。

ブルジョワ階級は、世界市場の搾取を通じて、諸国の生産と消費とを世界主義的なものに作り上げた。反動らには甚だ気の毒であるが、かれらは産業の足元から、民族的な土台を掘り崩したのだ。遠い昔からの民族的な産業は破壊され、今なお毎日破壊されている。これを押しつけるのは新たな産業であり、それを採用するかどうかはすべての文明国民の死活問題となる。しかもそれはもはや国内の原料ではなく、最も遠く離れた地域から産出する原料をも加工する産業であり、そしてまたその産業の製品は国内自体で消費されるばかりでなく、同時にあらゆる大陸でも消費されたのである。国内の生産物で満足していた昔の欲望に代わって新たな欲望が立ち現れる。この新たな欲望を満足させるためには最も遠く離れた国や気候の生産物が必要とされる。かつては地方的・民族的に自足し、まとまっていたのに対して、代わってあらゆる方面との交易、民族相互のあらゆる面にわたる依存関係が立ち現れるのである。

 一方、「マルクス主義」の名の下に遂行されたロシア10月革命(1917年)以降、世界的に盛行したいわゆる「国有化」政策の典拠ともされてきた『宣言』第二章に見えるプロレタリア革命後における10項目の政策提言も共産主義そのものではなく、むしろプロレタリア革命を経由して共産主義社会へ移行するまでの過渡期に対応するプログラムを列挙したものであった。従って、「国有化」は共産主義そのものではなく、共産主義へ至る通過点の手続にすぎない。それは資本を民間資本家の手から国家に移し替えた限りではなお資本主義―言わば国有資本主義―の枠内にあるとさえ言えるのである。
 もう一つ、『宣言』に関わる大きな誤解として共産主義=共産党独裁という図式がある。これは共産主義の政治的側面に関わる誤解である。おそらくその誤解の典拠は『宣言』第三章の「プロレタリア階級はその政治的支配を利用してブルジョワ階級から次第にすべての資本を奪い、すべての生産用具を国家の手に、すなわち支配階級として組織されたプロレタリア階級の手に集中し」云々というくだりにあり、さらに後年のマルクスが「プロレタリアートの独裁」という概念を提起したことでいっそう助長され、マルクス自身が独裁政治の理論家にされてしまった。
 しかし、『宣言』が発表された19世紀中頃には政党という近代的な政治用具はまだ発展を見ておらず、政党の発達はマルクス最晩年のヨーロッパでようやく始まるのである。マルクスらが『宣言』をその綱領文書として書いた共産主義者同盟も政党ではなく、共産主義者の国際的運動組織であった。従って「プロレタリア階級の政治的支配」といい、「プロレタリアートの独裁」といい、それらは共産党であれ、その他の何党であれ、政党を通じた支配の埒外にある概念である。
 要するに、それはプロレタリア階級を主体とする革命政権の樹立ということ以上でも以下でもなく、その具体的内実は事実上空欄のままに残されているのである。ただ、後年のマルクスが「独裁」(ディクタトゥール)という重たい用語を持ち出したのは、彼が「本質的に労働者階級の政府」とみなしたパリ・コミューンがブルジョワ支配体制によって無残に粉砕されたのを見て、強力な革命防衛体制の必要性を痛感したことによるものであろう。
 それではマルクス‐エンゲルスの想定する共産主義とは何か━。『宣言』では先行するサン・シモン、フーリエ、オーウェンらの共産主義を「空想的」として批判的に対置しようとする以外、積極的な形では何も示されていないというのが答えである。ただ、プロレタリア階級が革命によって支配階級となり、旧来のブルジョワ的生産様式を廃止し、階級対立を終わらせた後に「ひとりひとりの自由な発展が万人の自由な発展にとっての条件である」ような「一つの協同体が立ち現れる」と抽象的に定式化されるにとどまるのである。
 このようないささか肩すかしの回答は若きマルクス‐エンゲルスの未熟さに原因があるというよりは、先に見た『ドイツ・イデオロギー』の断片的な命題にもあったように、共産主義を創出されるべき「状態」とかあるべき「理想」ととらえるのでなく、現実を止揚し変革していく「運動」としてとらえるというマルクス‐エンゲルスの視座に由来すると解されるのである。彼らは理論の運動家ではなく、運動の理論家たらんとしていたのだ。

コメント

マルクス/レーニン小伝(連載第11回)

2012-08-16 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第2章 共産主義者への道

(5)『共産党宣言』まで

ブリュッセル亡命
 マルクスはルーゲと共同で創刊した『独仏年誌』をルーゲとの決裂により失った後、パリで亡命ドイツ人たちが発行していた『フォーアヴェルツ』という左派系新聞に寄稿するようになっていたが、同紙はプロイセン批判の急先鋒であったため、プロイセン当局はこれを危険視し、フランス政府に厳重な取り締まりを要請してきた。
 当時のフランスはルイ・フィリップのいわゆる7月王政末期に当たり、選挙法改正運動や労働運動、社会主義運動も高まりを見せる中、政府内では保守的な歴史家でもあった外相ギゾーが実権を握っていた。そのため、フランス政府としてもプロイセン政府の要請を容れ、マルクスら同紙関係者のフランス追放を決定した。
 1845年1月、フランス内務省から一週間以内のパリ退去を命じられたマルクスは2月、知人と共に隣国ベルギーへ出国した。当時のベルギーは30年にオランダから独立したばかりの新興国で、まだ自由な気風があったからである。
 ただ、次女ラウラを身ごもっていたイェニーとパリで生まれた第一子の幼いジェニーはしばらく残留し、後からマルクスに合流することになった。早くも波乱の人生の始まりが予感された。

共産主義者としてのスタート
 マルクスが理論上も実践上も共産主義者として本格的なスタートを切るのは最初の亡命地ブリュッセルにおいてであった。
 45年4月にはエンゲルスもブリュッセルへ移転し、二人の本格的な共同研究が始まる。その手始めは、マルクスによれば「ドイツ哲学のイデオロギー的諸見解に対するわれわれ(マルクスとエンゲルス)の対抗的見解を共同して作り上げること、実際上はわれわれの以前の哲学的意識を精算すること」を目的とした共同著作の執筆であった。これが今日『ドイツ・イデオロギー』として公刊されている二人の代表的な共著である。
 ただ、この作品は予定していた出版社側が断りを入れてきたため、未完の草稿のままに終わり、結局二人の生前には公刊されなかった。そういうわけで、この著作は今日でも十分に整理されないまま公刊されているが、その中心は先のマルクス自身の総括にあるように、ヘーゲル以来のドイツ哲学(ドイツ・イデオロギー)を批判すること自体よりも、マルクス‐エンゲルス自身の以前の「哲学的意識」―ドイツ・イデオロギーの圏内にあったヘーゲル左派―を精算して、いよいよ唯物弁証法及びそれを歴史に適用した唯物史観に基づく新しい共産主義思想―それこそがプロレタリアートの精神的武器となるはずのもの―を提示することにあった。
 こうした課題を担った同書が完全な形で公刊されていればマルクス‐エンゲルス(特にマルクス)の共産主義思想に関する基本書となったはずであるが、残念ながら未整理のために、この著作はマルクス‐エンゲルスの著作中最も読解困難なものとなっている。
 とはいえ、いくつかの断片的な形でマルクス(及びエンゲルス)の共産主義の特徴的な命題を引いてみよう。

☆実践的な唯物論者すなわち共産主義者にとっては現存する世界を革命的に変革すること、眼前に見出される事物を実践的に攻略し変革することこそが問題である。

☆共産主義とは、われわれにとって創出されるべき一つの状態、それに則って現実が正されるべき一つの理想ではない。われわれが共産主義と呼ぶのは現在の状態を止揚する現実的な運動である。この運動の諸条件は今日現存する前提から生じる。

☆共産主義は経験上、主要な諸国民の行為として一挙的かつ同時的にのみ可能なのであり、このことは生産諸力の全般的な発展及びそれと連関する世界交通を前提とする。

 こうした理論的な活動と同時に、二人は共産主義運動の実践にも取り組んだ。『ドイツ・イデオロギー』を書き上げた後の46年2月、彼らはブリュッセルに「共産主義者連絡委員会」を設立し、ヨーロッパ各国の共産主義運動の連帯を目指す。マルクスとエンゲルスがこのような組織を設立したのは、冒険主義的な革命運動でも抽象的な思想運動でもなく、まさに『ドイツ・イデオロギー』の中で提示したような「現実的な運動」としての共産主義を広めるためであった。
 ドイツ人による共産主義運動としてはつとに「正義者同盟」なる秘密結社があったが、一部冒険主義者の起こした無謀な反乱事件に連座して壊滅状態に陥っていたところ、ロンドンで活動していたその残党からマルクス‐エンゲルスの路線に沿った組織再建の相談を受けた二人はこれを承諾し、先の共産主義者連絡委員会も新たな組織「共産主義者同盟」に加盟することになった。
 早くも金欠状態で47年6月に開かれた同盟の第一回ロンドン大会には出席できなかったマルクスであったが、8月には同盟ブリュッセル支部長に推された。そして今度はマルクスも出席した11月から12月にかけての第二回ロンドン大会は、マルクス‐エンゲルスの立てた綱領原則を採択したうえ、大会宣言の起草を二人に委託したのである。この宣言文書があまりにも有名な『共産党宣言』として世に出ることとなった。

コメント