Cafe de Kerm ~毒味ブログ~

物言いにも、珈琲にも、もれなく毒が混入している可能性が無いこともないです。

「スパイウェア」と「ウイルス」の違い

2004-09-07 21:43:39 | PC
 最近はスパイウェアという言葉もずいぶんとメジャーになったものです。
 しかしながら、私には「スパイウェア」と「ウイルス」の区別がはっきり言ってつきません。最近はウイルス駆除ソフトでも駆除できるようになってきているだけに、ますますその境界は分からなくなってきています。
 では、その境界を決めるのはいったい何なのか?おもしろい記事があったので紹介します。

以下イタリックは
 スパイウェアの地獄めぐりへようこそ - CNET Japan
より抜粋です。

 さて、まず「スパイウェア」という言葉はどこから来たのか?と言う点から。

この言葉は最初、小型カメラのようなスパイ用機器を指していたが、1999年頃Zone Labs社が同社のZone Alarm Personal Firewallのプレスリリースで初めて現在の意味で使ったということだ。

 かの有名なZoneAlarmからスパイウェアは始まったわけですか。このソフトは、私も使ったことがあるのですが、お手軽かつフリーなファイアーウォールソフトとして、当時はずいぶん普及したものです。
 それにしても最初の用途、小型カメラとかというのは懐かしさを覚えます。最初はハードウェアを指す言葉だったのですね・・・と、まあ普通の人はそう考えますかな。今でも。

 では本題の「どこまでがウイルスとの違いなのか?」という点について、手がかりとなる部分を引用します。

「スパイ」という言葉は誤解を招きやすい。最も迷惑の度合いが高いとされるスパイウェアでさえ、大量の情報を収集はするものの、それらをサーバに送り返すことはしていないからだ。・・・<>・・・こうしたソフトウェアの作者たちは、アドウェアという言葉を使いたがる。彼らの立場から見れば、正真正銘のスパイウェアであるTrojanやキーロガーなどのリモートアクセスプログラムと一緒にされては困るというわけだ。


 ここでは最後の「一緒になれては困る」という点が重要。なぜなら、

自作のソフトウェアにアドウェアを添付して、ソフトウェアがインストールされるたびにアドウェア業者から広告収入を受け取るという仕組みだ。

という、「ビジネスに利用するための手段」だからです。

 つまり、スパイウェアは
身元のはっきりした、収益モデルとしてのソフトウェア
と言うことができます。ここで言う身元とは、「ベンダー(作成者)、バンドル元(配布元)」の両方の意味で使いました。
 身元が分からず、かつビジネスとして作られていないウイルスとは確かに一線を画しています。

 しかし、いくらビジネスモデルとはいえ、スパイウェアの中にも「パフォーマンスを低下」させたり、「ハードウェアをクラッシュ」させるものが少なからず存在しているのもまた事実です。
 作った人間が食っていくためとはいえ、わざわざこちらが不便な思いをする必要はありません。対策をしっかりととって、くれぐれも毒牙にかかることの無いように気をつけなければいけませんね。

 それにしても住みにくいネットワークになったものだ・・・

 

映画:パッションを見てきた

2004-09-07 00:00:57 | Dialy
キリスト教徒の方には大変申し訳ないのですけれど、
全然おもしろくなかったです。
純粋に映画としてみると、私の感性からすれば、
駄作中の駄作です。

 ただ淡々と、イエスが磔にされるまでを描いただけ。盛り上がりも何もありません。
 ただひたすらに、イエスを痛めつけるだけという。
 鞭打ちの場面とか、痛!グロ!気持ち悪!もういいやろ、気分悪いわ!てな感じです。
 もう、見ててえ、サド映画?とか本気で思いました。

 ストーリー進行も、よくある宗教裁判から始まるわけです。
 えーっと、サダム・フセインにアメリカがやっていることと何か違うんですかね?
 いかにも国教の司祭たちが極悪人のように描かれていましたが、当時のキリスト教なんてのは、国教がある中での一宗派でしかないわけですから、いわゆるカルトな訳じゃないですか。で、大多数から指示されている国教にとっては邪魔でしかないわけですよ。
 ちょっと置き換えてみてください。国教を民主主義に。カルトを共産主義や独裁に。一体何が違うというのですか?
 で、当時は言論の自由なんて無い時代ですよ。当然の末路だろ?当時としては。などと思って見てました。
 しゃべっている内容も、そこいらのカルトの人と大差ないように感じましたし、何か神格とか、神秘的なものとか、感じるわけもありませんでした。
 キリスト教徒からすれば激怒ものの発言でしょうが、彼らがイスラム教や仏教に共感できないのと同じ理由と考えてもらえばわかりやすいかと。

 まー私ら仏教徒、というか無神論者なんで、この宗教映画の良さなんてものはこれっぽっちも分からないわけですが・・・。
 私の信念として、これだけは言えます。
 私は、自分のことを真理だと言い切る人を信用しません。
 だから、この映画のイエスを私は信用しません。信仰のない私にとっては、彼は人間的に信用できない人なのです。

 結論を言います。
この映画は、キリスト教のプロパガンダ映画としか思えませんでした。キリスト教徒以外が見ても、流血等に気分が悪くなる可能性があります。ストーリーも全く新鮮みがありませんし、盛り上がりも無く淡々と進行しますので、私は一切おすすめいたしません。

 他の感想で「終わった後席を立つ人がいなかった」とか「みんな泣いていた」とか書いてありました。
 つまんなかったので、早く終われよ!とか思ってましたし、普通にスタッフロールが始まったら席を立ちましたが、何か?